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日本キリシタン物語
5.豊後に花が咲いた
巡礼者ザビエル
ドゥアルテ・ダ・ガマのジャンク船に乗って日本に別れをつげたザビエルは、5年後府内が日本の教会の本部になろうとは想像もつかなかったであろうが、毛利元就の重い手がその事実に導いた。
1551年の暮れ、大内義隆は陶晴賢の革命のときに殺された。後継者になった大友義鎮の弟大内義長のもと、5年間に、ザビエルの友*1コスメ・デ・トーレスの懸命な司牧によって山口の教会は大きく発展した。そのときトーレスはザビエルの夢を甦らせるため琵琶法師ロレンソと信者になった僧侶パウロを京都に遣わしたが、毛利元就は大内義長をやぶりトーレスたちは府内に亡命した。
そこでは新しい宣教師バルタサル・ガゴ神父が、大友義鎮の保護のもとに小さな教会を開いていた。1556年からその教会は、宣教師たちの唯一の拠り所となっていた。
義鎮が洗礼を受けるためには、まだ20年間待たなければならないが、いつも忠実な友であり自分がとるべき道を考えていた。宣教師の人数が次第に増え、日本人協力者が育てられていたが、ここでも教会が大きな危機にであった。
鹿児島、平戸と山口から追い出され、2度京都へ入るための試みが失敗に終わった。しかし、謙遜で目立たない姿のトーレス神父には、純粋な熱心さと勇気があった。2人の協力者、琵琶法師ロレンソと医者であった*2ルイス・デ・アルメイダを府内で、イエズス会にイルマンとして受け入れた。2人ともその当時の1番すぐれた宣教師の中に数えられている。
アルメイダ神父の記念碑
(天草 殉教公園)
外科医であったアルメイダは社会福祉から始め、まず第1に育児院を作り、続いて貧しい病人のために病院を開設した。この活躍が最初は豊後の侍の間に反発をまねいたが、後、特別に長崎では*3ミゼリコルディアの組などにより社会に大きな影響を及ぼした。
府内では、まず第1にまわりの田舎から宣教が広がり、九重山の麓の朽網(現 直入町)に熱心な教会が栄えた。また、トーレスは府内から宣教師を平戸、博多、鹿児島と京都に遣わした。この度遣わされた人たちは前の経験に倣い、どこででも教会のために道を開いた。アルメイダは平戸と鹿児島で、フェルナンデスとガゴは博多で、ビレラ神父とロレンソは、ついにいろいろの困難を乗り越えてミヤコに滞在し将軍足利義輝にも謁見することができた。府内ではその地を訪れたインドのイエズス会の管区長メルキオル・ヌニエスが持参した新しい教理の本が和訳された。
活気ある活躍であった。山口から追放されたときのショックでトーレス神父は重い病気になったが、次第に快復快復していった。そのとき以来宣教師たちは、彼を親しく「善良な老人」と呼んでいたが、今から彼の1番大きな活躍が始まる。
- *1 コスメ・デ・トーレス[1510-1570.10.2]
- イエズス会士。スペインのバレンシア生まれ、司祭になってから1538年にメキシコに赴く。1546年艦隊とともに太平洋を渡り、同年フランシスコ・ザビエルと出会う。その後イエズス会に入会する。
1549年、ザビエルと共に来日。鹿児島、平戸、山口で活躍する。1551年からザビエルの後任者となり、20年間にわたって、日本の教会を指導した。
1570年、カブラルにその責任を譲り、志岐で死去。 - *注2 ルイス・デ・アルメイダ[1525-1583.10]
- イエズス会士。ポルトガルのリスボンでユダヤ系の家庭に生まる。医学を学び、貿易商となり、1548年インドに渡る。後に日本に渡り、イエズス会士の言動に感じ、平戸、山口で宣教を助けた。
1555年、私財を投じて、豊後・府内に育児院を開設。翌年、イエズス会に入会した。博多、平戸、鹿児島、さらに横瀬浦、島原各地で宣教活動を行った。1566年には、五島、天草に開教した。
1580年、マカオで司祭に叙階され、翌年から天草地区の院長となり、河内浦で死去。 - *注3 ミゼリコルディアの組(慈悲の組)
- 慈悲の所作を実践するキリシタンの信心会。1559年までに府内病院に奉仕するものとして組織され、その後、長崎、京都をはじめ各地に及んだ。