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日本キリシタン物語
6.豊後から西海へ
1562年に、大村の若い*1大名純忠民部守からコスメ・デ・トーレス神父のもとに、珍しい招待が届いた。ポルトガルとの貿易のため自分の領地で港を一つ開くので、宣教師もそこに行けば教会を建てるための場所などを提供したい、と。選ばれた港は横瀬浦であった。
純忠の計画の裏には、平戸に起こった出来事が潜んでいた。前年、ポルトガル船のフェルナン・デ・ソーザ船長と16名の乗組員が平戸港宮前で殺害され、松浦隆信道可はそのことを許したか認めたかは明らかではないが、ポルトガル人はもっと安全な港を探していた。トーレス神父は相談のうえ招きに応じることに決め、鹿児島で効果的に宣教していたイルマン・アルメイダを招き横瀬浦に遣わした。
アルメイダは一番適当な人物であった。7月15日に横瀬浦に着いたとき、すでにドン・ペドロ・バレートの船が停泊していて、港の入り口の無人島、八の子島の頂上に大きな十字架が立っていた。アルメイダはポルトガル人に挨拶した後大村に赴き、純忠とその家老伊勢守と話し合い契約を結んだ。大村に滞在中伊勢守の弟、新助殿の屋敷に宿泊した。新助殿は大村で最初に信者になった人で、アルメイダの洗礼名を受けドン・ルイス新助と呼ばれるようになった。横瀬浦に戻ったアルメイダは、すぐに教会のため適当な土地を探し、他の準備をしている間トーレス神父とイルマン・フェルナンデスは横瀬浦に着いた。
トーレス神父は、新しい宣教地の重大さを見抜いて、自分自身がその始まりに指導をあたえたかった。府内に帰るつもりであったが、豊後で起こった争いが鎮まるのを待ち、続いて教会の向かい側である上町の丘に建てられたもう一つの十字架への行列のとき足を痛めたので、とうとう豊後に戻ることがなかった。
大村純忠終焉の居館跡
純忠はときどき横瀬浦を訪れ、ポルトガル人と親交を深め、トーレスたちと話し合った。貿易の問題として始まった計画が、次第に大名の個人的な信仰の問題となり、もっと徹底的に勉強するため教会が建っていた丘の裏に小さな屋敷を造り、そこから夜教会へ話を聞きに行っていた。説明していたのはイルマン・フェルナンデスであった。ついに1563年6月上旬、20名の家臣とともに洗礼を受けバルトロメオと呼ばれた。彼は受洗した最初の領主である。
7月にはポルトガル船2隻が入港し、その船でルイス・フロイス神父が来日した。フロイスは横瀬浦に残りその地で宣教師、また、日本の教会の歴史家としての活躍が始まった。同年8月17日、針尾殿と*2後藤貴明が手を組んで大村と横瀬浦を攻撃し、11月ポルトガル船がマカオに帰るとき横瀬浦は破壊され、宣教師たちは分散して他の所に亡命したが、歴史はすでに新しい時代に入っていた。西海はキリシタンの信仰が根をおろす所となった。
- *1 大名純忠民部守 (大村純忠 おおむら すみただ)[1533-1587]
- 肥前西彼杵半島の領主。
大村領内に良港を求めたポルトガル人たちの交渉に応じるとともに、キリスト教に好意を示す。1563年、コスメ・デ・トーレス神父から受洗。洗礼名バルトロメオ。
1570年に長崎を開港。領内の寺社を破壊し、領民をキリスト教に集団改宗させた。さらに長崎を教会領として寄進した。このことが後に、豊臣秀吉の伴天連追放令の契機となったといわれている。
1582年には、有馬晴信、大友宗麟らと天正少年遣欧使節を派遣した。 - *注2 後藤貴明(ごとう たかあき)[生年不詳-1583.11]
- 武雄(現在の佐賀県)の塚崎城主。大村純前の子。後藤純明の養子となる。
1563年からしばしば大村純忠を攻め、竜造寺隆信の味方となったが、隆信の支配下におち、その子家信の養子となった。隆信によって隠居させられた。