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日本キリシタン物語

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9.奈良1563年。盲人の琵琶法師と侍たち

結城 了悟(イエズス会 司祭)

ステンドグラス

横瀬浦では大村純忠の洗礼によって喜びの日々が続いていたが、京都地方で宣教していたビレラ神父とイルマン・ロレンソは厳しい試練に耐えていた。京都から追い出されて堺に退いたが、そこにまで危険が感じられた。

奈良から2人の有力な武士*1結城山城守と*2清原枝賢はビレラ神父を招き、その教えについて聴きたいと言ったが、それは教えを乞うよりもその教えの間違ったところを見つければ解決したかったからである。危険を感じた堺の信者は、ビレラが行くことを許さずイルマン・ロレンソを遣わした。

ロレンソはその使命に潜んでいる危険を感じ取っていたが、奈良へと赴いた。奈良では結城と清原の1人の友人、*3高山飛騨守も彼らと一緒になった。ところがロレンソの話を聴き、特にすべてのものの創造主である唯一の神について聴いたとき、3人の心が変わり洗礼を受けたいと願った。高山はロレンソを自分の沢城に招き、そこで彼の家族も洗礼を受けた。飛騨守はダリオと呼ばれ、13歳であった長男はユストと呼ばれた。

高山右近天主堂跡
高山右近天主堂跡

*4結城の長男左衛門尉は、飯盛城にロレンソを招き若い侍たちに話をするよう頼んだ。ロレンソの姿を見て侍たちは笑ったが、ロレンソの話を聴くうちに次第に笑い声が静まり、ついに20名ほど洗礼を求めた。彼らの中には、のち五畿内の一番優れたキリスト信者になる者がいた。三箇伯耆守とその息子、池田丹後守、三木半太夫。この最後の勇ましい侍は*5聖パウロ三木の父である。五畿内では教会の前に道が開かれた。

数年後、三箇の美しい教会でサンチョ三箇はルイス・フロイス神父にあの回心の話をしているとき、教会の中で大きな玉で作られたロザリオを携えて祈っていたロレンソを指して、弱い者を使い偉大なことを行う神様の御業をたたえた。

次にやってきた織田信長の時代にもロレンソは宣教を続け、ルイス・フロイスと一緒に京都や岐阜で信長に会い、その好意を得て京都に戻るための許可が得られた。安土でも活躍して、大名京極高吉とその奥方マリア浅井に洗礼を授けた。その間、藤吉郎と呼ばれていた豊臣秀吉と自由に話すことになった。信長の息子たちもロレンソと友達になった。

1587年の禁教令のとき、ロレンソは九州に戻り長崎の近くで活躍したが、ついに身体が衰えてきたので長崎のコレジヨに引退した。そこで1年程祈りの生活を続け、ついに「神から照らされた」この盲人はその道を終わった。キリシタン時代のもっとも優れた宣教師の1人であった。


注釈:

*1 結城山城守(結城忠正)[生没年不詳]
 五畿内の初期の、尾張出身のキリシタン大名。
 フロイスは「学問および降霊術において著名であり、偉大な剣術家で、書道に長じ、日本の天文学に通じ、希有の才能の持ち主」と評している。
 彼は、五畿内におけるキリシタン宗門の発展に大きな影響を与えた。
*注2 清原枝賢(きよはら しげかた)[1520-1590.12.11]
 天武天皇皇子舎人親王系の公卿。唯一神道の大成者吉田兼倶の孫にあたる。
 ロレンソと交渉を持ったころは、少納言侍従、宮内卿、文章博士。
 ロレンソに出会い洗礼を受けるが、霊名は不詳。
 『公卿補任』には、1581年正三位に叙せられたのち出家して道白と称したとあり、棄教したと思われる。
 娘・清原マリアが仕えた細川ガラシャの夫・細川忠興の祖母は、清原氏の出であった。
*注3 高山飛騨守[生年不詳-1595ごろ]
 五畿内における、初期のキリシタン武将。摂津高山(厨書)の出身。
 奈良で偶然にキリシタンと接触し、結城山城守らと共にロレンソの説教を聞き、1563年に洗礼を受けた。当時は松永久秀の武将として大和宇陀山中の沢城主であった。
 摂津本山寺の文書名有の「高山飛騨守大慮」とは、彼の霊名の「ダリオ」を「大慮」したのもだと思われる。
 織田信長が上洛した際に、和田惟政に従って、追放されていたフロイスの帰京のために働いた。子である高山右近と共に高槻を支配した。高槻から明石に移り、1587年に明石を追われると淡路から備中クライシに身分を隠して移り住み、その後前田利家の下で過ごし、最後の2年間は京都で過ごし、その地で病死した。
*注4 結城の長男左衛門尉[生年不詳-1565.7]
 五畿内のキリシタンの指導者の1人。結城山城守の息子。三好長慶の家来。
 1563年、ビレラ神父から受洗。
 飯盛城で熱心に活躍し、自分の屋敷のあった砂に教会を建てたが、若くして死去した。
*注5 パウロ三木[1563-1596]
 キリシタン武将 三木半太夫の息子。
 安土セミナリヨの第1期生。イエズス会のイルマンとなり、大阪で布教活動をしているとき捕らえられ、京都市中引き回しの後、長崎西坂で殉教。
 日本26聖人の1人として、遺骨は日本26聖人記念館に納められている。

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