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日本キリシタン物語

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10.口之津に蒔かれた種

結城 了悟(イエズス会 司祭)

長崎 三浦町教会
長崎 三浦町教会

島原半島の南に、有馬の一番良い港口之津が開港され、当時中国と東南アジアとの貿易の基地であった。

*1有馬義貞は、弟大村純忠の模範に倣って、1563年宣教師を招いた。
 イルマン・アルメイダが遣わされ、口之津で教会を開くことに成功した。

その時代は口之津は主に四つの村に分かれていた。港の北側に大屋、加津佐へ行く道の入り口に久木山、天草へ向かう海岸には早崎、そして港に中町。中町では船が停泊する所を大泊と呼んでいた。アルメイダは最初に大名の代官の所に宿が与えられたが、領民はそこへ時々行くことを遠慮していたので大泊に場所を変更した。横瀬浦の破壊の時き口之津でも教会の発展が止められたが、1564年の春、有馬春純は高瀬(現在玉名)に亡命していたトーレス神父とアルメイダを、もう一度招いた。

教会は大泊の早崎へ行く道の入り口近くに建てられ、そこから200m程離れた土平崎に「岬の聖母」小聖堂も建てられた。そこでトーレス神父の静かで効果的な司牧によって、5年間で口之津の四つの村人がキリシタンになった。早朝ミサをささげ、その後大人たちが仕事に行ってから子どもたちに教理と聖歌を教えていた。同時にトーレスは口之津から宣教に指導を与え、五島の福江と天草の志岐にアルメイダを遣わして、信仰の種が蒔かれた。

1567年、ポルトガル船が口之津に入港したことによって、大村純忠はトーレスと相談しに口之津まで行った。その相談の結果として、冬の初めにアルメイダは*2ベルナルド長崎甚左衛門の城下町に行った。同時に口之津から宣教が次第に大名の本城である日野江城に近づき、ついに13年前宣教師を招いた有馬義貞は、1576年4月口之津で洗礼を受けドン・アンドレスと呼ばれた。

ステンドグラス

1579年、巡察師*3アレッサンドロ・ヴァリニャーノは口之津に入港し、そこで二つの大切なことを行った。新しい大名有馬晴信を洗礼まで導き、日野江城の城下町に最初のセミナリヨを設立した。1580年の春であった。

口之津は受けた信仰に対して、平和の時にも迫害の時にも忠実であった。1614年、長崎奉行長谷川左兵衛はその信仰を試したが、教会の裏の墓地が殉教地になり、そこで22名の殉教者が証した。のち松倉重政の迫害の時、ローマ教皇へ手紙を送った。蜂助太夫、ガスパル長井、トメ荒木などの優れた殉教者が口之津からでている。最後の証は島原の乱の時で、1638年に口之津の住民は、全員原城で亡くなったことである。


注釈:

*1 有馬義貞[1521-1576]
 戦国末期の肥前島原の領主。キリシタン大名の1人。
 有馬晴純の嫡子。有馬晴信の父。
 上洛した義兄弟の安富越中左兵衛によってキリシタン宗門の名声に接し、キリシタンに改宗した実弟大村純忠の影響で、1576年4月15日受洗した。霊名はアンドレス(アンデレ)。
 しかし、9カ月もたたないうちに潰瘍(かいよう)のために死去した。
*注2 ベルナルド長崎甚左衛門[生年不詳-1622.1.23]
 長崎開港当時の領主。ベルナルドは霊名。
 南北朝のころから長崎地方の領主であった長崎氏の14代目の当主。
 キリシタン大名の大村純忠の下に属し、1563年6月、横瀬浦で純忠と共に受洗した。妻は大村純忠の娘。
 トーレスの指示によって、長崎でのアルメイダに協力するなど、宣教のために働いた。
 1571年には新しい長崎の町の外町に対する所領権を有していたが、1605年にはすべてが公領となった。その際大村喜前が時津村などの700石を与えようとしたが、これを受けず、筑後の田中吉政に仕えた。しかし、1620年、田中吉政の急死により田中家が断絶したため、大村氏の下に帰り、翌年死去した。
*注3 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ[1539.2-1606.1.20]
 イエズス会司祭。イエズス会巡察師として、初期の日本教会を指導した。
 ナポリ王国キエティの名門に生まれる。パドヴァ大学で法律を修め学位を得た。
 1566年にイエズス会に入会し、1570年に司祭叙階。1573年にインドに派遣される際、巡察師の大役に任ぜられた。
 イエズス会巡察師として、3回来日する。日本教会の財政、組織、教育機関を設置し、天正少年遣欧使節をローマに派遣する。また教育的観点などから日本へ印刷機を持ち帰り、印刷技術を日本人に習得させた。
 1603年に離日しマカオで布教、同地で死去。

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