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日本キリシタン物語
13.キリシタンになった大名
カトリック高槻教会 高山右近の像
大名という呼称は戦国時代の終わりころから、1600年の関ヶ原の合戦まで、日本の歴史では勝れた人物の仕業や大きな悲劇を思いおこさせるが、400年の霞に包まれてロマンチックな気持ちを与えるかもしれない。その大名と領主たちは、キリシタン時代には教会とどんなかかわりがあったであろうか。そのような人物の中から本当に心からキリストの教えを受けることができる人物がいたであろうか。ここでも400年のときの隔たりが歴史に影響を与えているようである。
明治、大正時代に書かれた本では、ときには「キリシタン大名」という題の元に全キリシタン時代の歴史が紹介されている。昭和のある歴史家や評論家は、彼らの信仰の問題を簡単に片付けて、キリシタンになった大名は2、3名であって、彼らはポルトガルとの貿易の利益を手に入れるためであったであろうと述べている。
まず第1に歴史の出来事として、記録、伝説、場所などの研究をもって、その事実を調べるべきであると思う。聖フランシスコ・ザビエルは大名の立場を理解して、訪れた先々でまず初めに大名に謁見して宣教の許可を願った。薩摩、平戸、山口と豊後ではそのようにした。その4人の大名の中、大友義鎮だけが信者になったが、それはザビエルに出会ってから20年後のことであって、ポルトガル貿易の可能性が失せたときであった。
教会が広がり次第に数多くの大名が宣教師とかかわりをもつようになったが、その中のある人物、毛利輝元、加藤清正などは最初から敵対を示していた。柳川(福岡県)の田中義政とその息子は熱心な仏教徒であったが、いつも好意的であった。無関心な人々があれば、キリスト信者になる人もいた。洗礼を受けた大名が30名をこえるのは信憑(しんぴょう)性のある記録でわかる。それだけではない。キリシタンになる大名が次第に増えてくるのをみて、豊臣秀吉は1587年に禁教令を発布するに至ったのであった。
キリシタンになった大名の中にはいろいろの立場もみられる。二人の高山ダリオ飛騨守とその息子*1ユスト右近、*2小西行長、*3黒田孝高、*4蒲生氏郷、大村純忠、有馬晴信、三箇伯耆守信長の孫岐阜中納言織田秀信 *注5 などは最後まで信仰を守り、彼らの数人は熱心に宣教に協力した。静かに隠居して迫害をしないで死去する大名もいた。蜂須賀家政、豊後の佐伯の毛利高政、京極高知はそうであった。信仰を棄てて迫害者になる大名もみられる。黒田長政、有馬直純、寺沢広高がその道をとった。貿易の問題はほとんどかかわりがなかった。
- *1 高山右近[1552ごろ-1615.2.5]
- 代表的なキリシタン大名。
霊名はユスト。高山飛騨守厨書の長男として摂津高山に生まれる。
1564年、大和国沢においてロレンソより受洗。
和田惟政に従い摂津芥川城にいたが、惟政の戦死後、高槻城主となる。右近は、この地に教会を建て、京都南蛮寺建立にも貢献し、領民の改宗に尽力した。
本能寺の変で武勲を立て、安土にあったセミナリヨを高槻に迎えた。以後、秀吉の武将として従軍したが、1582年10月、秀吉によって播磨明石に移封された。
1587年の九州の役に加わったが、同年7月24日、秀吉によって追放され、小豆島に隠れ、後に肥後の小西領に行った。
その後、前田利家の家臣となり、茶人としても名声を博し、キリシタンの布教に努めた。
1614年、徳川家康の命によって長崎からマニラに追放され、翌年同地で病没した。 - *2 小西行長[1558ごろ-1600.11.6]
- キリシタン大名。
霊名は、アウグスチィノ。小西立佐の次男として、堺に生まれる。
宇喜多直家に仕え、使者として秀吉とも交渉をもったといわれる。
1584年、秀吉の船奉行を務めていたとき、岸和田に進出した紀伊根来・雑賀の一揆を海岸から攻撃し、翌年には雑賀の太田城を水軍をもって攻撃した。1586年には小豆島、塩飽諸島、室津などを領していた。1587年の九州の役にも水軍を率いて従軍した。
伴天連追放令で追われた神父を自領の小豆島にかくまった。
1588年7月、秀吉から肥後南半の領主に任ぜられ宇土に移った。
1600年10月、石田三成と共に、関ヶ原で徳川家康に敗れ、信仰を保ったまま京都の正面河原で処刑された。 - *3 黒田孝高[1546.12.22-1604.4.19]
- キリシタン大名。
姫路城に生まれる。小寺職隆の子で、始めは小寺官兵衛と称した。1579年、黒田に姓を改めた。
織田信長の中国出兵のとき、毛利との和平のために、秀吉を助けた。
1585年、高山右近の影響で、大阪で洗礼を受ける。
1586年、九州の役では、秀吉の使者として西下し、宣教師を援助した。また、小早川秀包、黒田長政たちを洗礼に導いた。
1600年、関ヶ原の役では、徳川にくみし、勝利を得て豊後を治めた。
1601、筑前博多の新領に移った。1604年に、伏見で病死。 - *4 蒲生氏郷[1556-1595.3.17]
- キリシタン大名。
会津若松城主。飛騨守。
織田信長の三女をめとり、信長の死後も、秀吉の下で軍功をたてた。
1584年、伊勢松カ島城主となり、小田原、奥州の平定の功績によって、1590年会津若松を与えられた。
1584、58年ごろ、茶人仲間の高山右近のすすめで、受洗した。
伏見で亡くなるとき、右近がその臨終をみとった。 - *4 織田秀信[1580-1605.6.24]
- キリシタン武将。
織田信長の嫡孫。幼名、三方師。
信長と信忠父子が、本能寺の変で死去した後、信忠の嫡男三方師(当時1、2歳)を擁立しようとする動きが高まった。秀吉によって安土に置かれた後、岐阜に移され、秀信と称した。
1595年、ひそかに洗礼を受けたが、その後キリシタンとして振る舞った形跡はない。
1600年、関ヶ原の役に先だって、石田三成からの誘いで西軍につき、東軍によって岐阜の居城を攻撃され、高野山に赴いた。