home > 時・歴史 > 日本キリシタン物語 > 18. 26聖人(1) 一つの証の歴史
日本キリシタン物語
18. 26聖人(1) 一つの証の歴史
ペトロ・バプチスタ神父と聖アントニオ
1587年、九州での戦いが終わった後、豊臣秀吉はバテレン追放令を発布した。そのころ、彼を悩ませていたのは、キリシタンになる大名の増加と、彼らを結ぶことができる信仰であった。そのため大名たちにキリシタンをやめるように言い、きっばりと断った高山右近は領地を奪われた。
だれも背かないことをみて安心した秀吉は、迫害を強化するどころか長崎ではポルトガル人のため一つの教会を許した。当時の秀吉は1590年に関東地方も治め、その政治的な権力が最高のときであった。
しかし、1596、7年に26聖人の死刑を決定したとき、人格が変わっていた。権力の酔いによって朝鮮への出兵にのり出し、中国と戦い台湾を手に入れようと試みてマニラに脅しの手紙を送った。秀吉は帝国の夢をみていたが、私生活の過ちの結果健康を損なった。朝鮮での戦争に失敗し、関白秀次とその家族の殺害や千利休の切腹などが、彼に精神的な打撃を与えた。
また、慶長元年の五畿内の大地震は、太閣の最後の夢伏見城に多大な損害を及ぼした。ちょうどそのとき、マニラからアカプルコヘ行くガレオン船サン・フェリペ号が、浦戸港の入り江で難破した。土佐の大名長曾我部元親と増田長盛が、船の莫大な積荷を没収して太閤に送った。秀吉は、3年前マニラ総督の平和大使として肥前名護屋に上陸した*1ペトロ・バプチスタ神父と結んだ契約を忘れて、その積荷を受け取ったが、ペトロ・バプチスタは乗員から積荷を返すように頼まれたので問題が起こった。ペトロ・バプチスタは最初から豊臣秀吉を信頼していた。「秀吉が生きている間恐れることはありません」と安心するように言っていた。秀吉から京都明満寺跡に与えられた土地に家や教会と小さな病院を建て、熱心に宣教していた。
しかし、今、秀吉は9年前の禁教令を思い出し、浦戸から戻った増田長盛と話をしただけで、12月8日、フランシスコ会の修道士とその信者を監禁するように命令した。大坂では奉行が、アンドレ小笠原の家に住んでいたイエズス会のパウロ三木と二人の同宿もその数に入れた。伏見城で諸々の話が二十日間続き、秀吉は毎日のように意見が変わり、ついに鷹派増田は、施薬院などの意見に従い、捕らわれた人々が長崎で磔の刑を受けるように定めた。12月31日、その命令が下り1597年1月2日、フランシスコ会の6名とイエズス会の日本人3名と信徒15名が京都の牢屋に集められた。その夜、パウロ三木は殉教者と一般の囚人にも向かって長く説教した。
26聖人記念館 ステンドグラス
秀吉は今回殺す方に傾き、京都の奉行石田三成に殉教者を長崎に送る前に皆の両耳と鼻を切り落とすように命令した。そのため上京の戻橋の付近に3日朝送られた。ここでも石田三成はもう一度秀吉を欺き、左耳たぶだけを切って済ませた。その後殉教者は牛車に乗せられて、見せしめのため都の主な通りを引き回された。牛の遅い歩き方のリズムに群衆からの侮辱、殉教者の祈り、パウロ三木の説教が折り込まれていた。牢屋に戻り、翌日の出発の準備が進められた。祈りと、キリストのため最初に血をささげることができることが殉教者の休みと慰めであった。
1月3日、修道者を除いて皆縛られて大坂と堺に送られた。東寺の門から京都を出るとき、そこでフランシスコ会の恩人が待っていた。ペトロ・バプチスタ神父は彼に近付き、首にか掛けていた十字架を恩人に渡した。コスメは後日、深い感激をもって次のように書いている「ペトロ・バプチスタ神父は私を置いて行ってしまいました。私に残っているのは彼の十字架だけです」。その十字架は今、スペインのサン・エステバン・デル・バジェの聖堂になっている聖ペトロ・バプチスタの生家に保存されている。
豊臣秀吉はすでに陰に入ってて、正面に出ているのは長崎でイエスと共に十字架に掛けられるため道を歩いた26人の男たちである。
- *1 ペトロ・バプチスタ神父[1546.6.24-1597.2.5]
- 日本26聖人のひとり。フランシスコ会士。
スペインに生まれる。サラマンカ大学で神学を学び、1568年フランシスコ会入会。1581年にメキシコに渡り2年間の宣教の後、フィリピンに渡航。1589年にフィリピン管区長となる。1594年総督の特使として平戸に渡来した。
肥前名護屋城で関白豊臣秀吉に謁見し、京都に移り、秀吉から与えられた土地で教会、修道院、病院を建て、布教を行った。
サン・フェリペ号の事件に巻き込まれ、秀吉の命によって捕らえられ、長崎の西坂の丘で十字架に掛けられ殉教した。