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日本キリシタン物語
21.徳川家康とキリシタン
1597年3月12日、もと天草コレジヨの院長であった*1フランシスコ・カルデロン神父は、長崎のコレジヨでローマへの手紙を書いた。
彼は、手紙から目を上げて、眼下に港の見える西坂の丘に並ぶ十字架の列を眺め次ぎのように自分の思いを表している。「我らの迫害者は、いままで血を流すことはしませんでした。しかしいま、この優れた死に方を見た当地の新しい信者たちは、自分たちもいつか同じように証(あかし)を立てるために、どれほど強められたことか信じられないほどです」。400年後、同じ殉教の丘で教皇ヨハネ・パウロ2世は殉教者の証をほめて「この聖なる地で各階層の人々が、愛は死より強いことを証明しました」と述べました。
その殉教の1年後、太閤秀吉は他界した。棄教のかわりに生命を約束する迫害者も亡くなった。
その数年前に徳川家康は、キリシタン大名と宣教師の人気を得ようと努めていた。そのため、関ヶ原合戦後宣教師たちは家康のもとに行って、秀吉が発布した禁教令を取り下げるように願った。家康は彼らの訴えを快く引き受け、すべてが落ち着いたら取り下げるから少し待つようにと言って安心させ、長崎、大坂と京都に教会を所有することを許した。
翌年、宣教師たちがローマに送った報告では、相変わらず家康の性格をほめ、賢明に日本の政治を守りたかめていると書かれているが、常に最後には、「しかし我らの聖なる信仰を嫌っています」と付け加えている。
家康の本意については、処々から知らせを受けていた。家康の本心を知り数人のキリシタンの敵であった長崎奉行寺沢志摩守、長谷川左兵衛、そしてイギリス人のアダムスは、宣教師とキリシタンたちを訴えるため、すべての機会を利用していた。
オルガンティノ神父と*2ロドリゲス・ツヅ神父は、本多上野介の助けを得て、家康にキリシタンの教えを理解してもらえるよう努めた。しかし、岡本大八と有馬晴信の処刑後、1610年ごろから家康は正体を現し始めた。1612年にはすでに江戸と京都の信者が苦しめられ、1613年には長谷川左兵衛の圧力により肥後では加藤清正、1615年には松倉重信法印のもと迫害が激化していった。日本の教会は、その長い十字架への道を歩み始めていた。
1614年、ついに家康はすべての宣教師を追放し、キリシタン宗門を禁じた。 林道春(林羅山)と南禅寺の金地院の崇伝の影響のもとに作られた禁教令は、秀吉の禁教令とだいぶ違っていた。家康は幕府を支える思想を準備していた。唯一の神を最高の主として称えるキリシタンの教えに対して、家康の考えでは、最高のものは将軍であり、その命令に対してだれも背くことができない。
切支丹制札(二十六聖人記念館)
1614年の禁教令で家康はキリシタンの問題が終結すると思っていた。彼は、自分が開いた道が後に、日本を鎖国へと導き、望んでいた海外への発展を止め、罪のない多くの日本人の血が流される要因になろうとは思っていなかった。
- *1 フランシスコ・カルデロン神父[生年不詳-1618.12.4]
- イエズス会士。
スペインのソリアに生まれる。アルカラ大学で学んだ後、1569年、司祭に叙階され、イエズス会に入会。
1583年にインドに向かう。
1585年7月31日来日し、1586~1594年の8年間日本のコレジヨの院長を勤める。1595年からは、有馬のセミナリヨの院長に就任した。1609年には長崎に移り、管区顧問と修道院顧問を兼ね、霊的指導者および聴罪司祭として働いた。
1614年11月、徳川幕府によって、マニラに追放され、1918年同地で巡察師に任ぜられ、その年フィリピンで亡くなった。 - *2 ロドリゲス・ツヅ神父[1561/2-1633.8.1]
- イエズス会士。ポルトガルに生まれる。
漢名、陸若漢。本名はジョアン・ロドリゲス。
「ジョアン」も「ロドリゲス」もよくある男子名であったため、通訳として活躍したことから、「ツヅ」または「ツウヅ(通事)」と呼ばれる。
1577年に来日し、日本でイエズス会に入会。コレジヨに入学し、ラテン語、日本語、また日本文学に熟達し、その後セミナリヨの教師となる。その後、通訳として活躍した。
1610年、長崎でポルトガル船と幕府との紛争に巻き込まれ、冤罪(えんざい)でマカオに追放された。
中国でも布教活動に従い、マカオで亡くなった。