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日本キリシタン物語

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24.江戸大殉教とその影響

結城 了悟(イエズス会 司祭)

江戸の殉教(日本二十六聖人記念館)
江戸の殉教(日本二十六聖人記念館)

1623年12月、江戸は祝いの雰囲気に包まれていた。  最初の「将軍として生まれた徳川」、19歳の家光は、任命を受けて京都から江戸に戻った。その祝いのために、全国から大名たちが江戸に集められた。このとき家光は、父秀忠と同じように迫害の道を歩むという、キリシタン宗門に対する自分の考えを伝えようとした。

江戸の教会の迫害は、1601年から始まると言ってもよいだろう。
 日本に戻ったフランシスコ会の宣教師、主に*1ジェロニモ・デ・カストロ神父と、その後*2ルイス・ソテロ神父が徳川家康の許可を得て教会を建て、浅草にハンセン病患者のため施設を開いた。

江戸や駿府(静岡)に屋敷を建てていた大名とその侍の中には、キリシタンもいた。しかし、マニラとの貿易が実らなかったことや、他の諸々の問題もあって、次第に家康の気持ちが変わっていった。

1612年、駿河では久保に仕えていた数人のキリシタン、その中*3ジョアン原主水と韓国人の*4ジュリア・オタアが追放された。また、1年後鳥越(浅草)では数多くのキリシタンが殉教した。ソテロ神父も捕らえられ処刑されるはずであったが、伊達政宗の取り成しによって許され。

江戸の殉教者の記念碑(カトリック高輪教会)
江戸の殉教者の記念碑(カトリック高輪教会)

1615年、原主水は再び捕らえられ、厳しい拷問を受けた。同じ年ハンセン病を患っていた数人の信者が、殉教を遂げた。その後は地方で迫害が盛んであったが、江戸は比較的静かであった。ところが1623年には原主水が江戸で3度捕らえられ、さらに二人の神父、イエズス会の*5デ・アンジェリスとフランシスコ会の*6ガルベスと、イルマン・シモン遠甫が捕らえられた。徳川家光は、大きな見せしめを与えようと決めた。そして1623年12月4日、江戸の入り口、品川の芝で宣教師と信者50名が火あぶりによって処刑された。

その当時まであまり迫害をしなかった東北の数人の大名は、将軍の心に従い自分の領地でもキリシタンの血を流した。
 特に久保田、仙台と米沢に殉教者が多かった。

米沢の教会の歴史には特色があった。関ヶ原の合戦の後、家康は上杉景勝の広大な領地を奪い、代替地として米沢を与えた。景勝と忠実な家臣はそこに住居を構え、江戸から離れ、山に囲まれた盆地で常に徳川と対立していた。

幕府からキリシタンについて報告求められたとき、景勝は簡単に「ここにはキリシタンはいない」と答えていた。ところが1612年ごろ、彼の家臣*7甘糟右衛門が江戸でルイス・ソテロ神父から受洗し、米沢に帰って二人の息子にその信仰を伝え、3人とも熱心に親戚や仲間の侍などの間に宣教した。そして、1627年ごろには信者の数が一千人を超えていた。会津若松からの宣教師や、旅するほかの宣教師が、その教会の世話をしていた。

景勝が死去しその息子定勝は徳川と対立することができなかった。1人の家老の訴えによって、その小さな教会に対する迫害が始まった。1629年1月12日には、雪で覆われた米沢でルイス甘糟と息子たち、そして他の主だった信者、また北山原と糠山、花沢で刀によって53名が殉教した。

まもなく平和と喜びの雰囲気の中で殉教者が命をささげ、一般市民の間から尊敬と抑えられた悲しみの中ですべてが終わった。

現在、主な殉教地であった北山原の繁った木陰に、カルバリヨを考えさせるような美しい記念碑が建ち、信徒の活躍によって造られたあの教会の思い出を保っている。


注釈:

*1 ジェロニモ・デ・カストロ神父[生年不詳-1601.10.6]
 フランシスコ会士。
 ポルトガルのリスボンで生まれる。
 スペインのコルトバで修道誓願を宣立。のちにグラナダ管区に移り、司祭叙階。
 1593年スペインをたち、マニラを経て、1594年8月に平戸に渡来。京都で日本語を学ぶ。同年末には、ペトロ・バプチスタ神父に伴われ、長崎で宣教活動を始める。1596年10月サン・フェリペ号の事件がきっかけとなり、ペトロ・バプチスタ神父以下26人の殉教(日本二十六聖人)の際には、九州から畿内への旅の途中で、難を逃れ、その殉教を見守った。
 その後、4人のフランシスコ会士と共に追放され、マニラに戻る。1598年7月、再び口之津に潜入。秀吉の死後、伊勢に隠れていたところを、フィリピンとの交易を望む徳川家康によって捜し出され、貿易の斡旋(あっせん)を条件に宣教を許され、1599年江戸にロザリオの聖母聖堂を建立し宣教を始めた。1600年1月、家康の特使として、マニラに赴き、1601年フィリピン総督の親書と進物を携えて平戸に戻る。しかし、病に倒れ、京都の修道院で病死した。
*2 ルイス・ソテロ神父[1574.9.6-1624.8.25]
 日本205福者殉教者の1人。フランシスコ会司祭。
 スペインのセビリア市参事会員の次男として生まれる。
 サラマンカ大学に学び、1594年にフランシスコ会入会。1599年スペインをたち、メキシコ経由で、1600年フィリピンに渡った。日本での宣教を志し、マニラ近郊で日本人キリスト教徒の指導に従事し、日本語を学ぶ。1603年フィリピン総督使節として来日。和歌山、江戸、陸奥を中心に宣教活動を行う。1613年江戸の迫害の際捕らえられ死刑の宣告を受けるが、伊達政宗の仲介によって釈放され、同年10月、慶長遣欧使節・支倉常長と共に月の浦を出航した。メキシコを経てマドリード、ローマに赴き、スペイン王、教皇に拝謁し、日本宣教の援助を求めるが目的を達せず、1617年スペインをたち、メキシコ経由でフィリピンに入り、ここで抑留される。2年後、再び日本に潜入したが、すぐに捕らえられ、大村で殉教。
*3 ジョアン原主水[1587-1623.12.4]
 殉教者。千葉の出である下総国臼井城主原胤義の嫡男。
 父は小田原の陣で北条氏に属し、戦後戦死したが、家康によって見込まれ、小姓として召し出された。1600年ごろ受洗したと思われる。1603年、30人組の頭となる。家康による旗本直参にキリシタン禁制が発せられ、厳重な検査が行われたとき、近親の岩槻の粟飯原氏を頼り逐電、約2年潜伏し宣教にあたった。1614年捕らえられ、家康の命によって額に十字の烙印を押されたうえ、手足の指を切断されて追放された。その後、江戸で信者たちを励ましていたが密告され、1623年12月アンジェリスらと共に江戸市中を引き回しのうえ、高輪の札の辻で火刑に処せられ殉教。
*4 ジュリア・オタア[生没年不詳]
 韓国人キリシタン。
 豊臣秀吉が大陸に出兵した際、少女の身でキリシタン大名であった小西行長に捕らえられて、行長の妻のもとに送られる。そこでキリシタンとなる。1600年、小西行長が関ヶ原の合戦に敗れ没落したため、徳川家康の大奥に仕えるようになり、駿府に移った。1612年、家康の反キリシタン政策にもかかわらず信仰を固守し、伊豆の大島に流された。さらに神津島に送られ、信仰の中で殉じた。
*5 デ・アンジェリス[1568-1623.12.4]
 日本205福者殉教者の1人。イエズス会士。
 シチリア島に生まれる。
 18歳のときにイエズス会に入会。東洋の宣教を志願し、1595年にポルトガルを出発したが、台風にあって引き返す。1599年リスボンで司祭叙階。3月再出発して、1602年7月来日。有馬で日本語を学び、翌年伏見の新しいレジデンスに送られた。1611年駿府にイエズス会の布教所を新設し、1613年江戸で活動する。1614年の伴天連追放令後も日本にとどまり、1615年後藤寿庵の招きによって仙台に行った。毎年東北地方を巡回し、1618年には宣教師としてははじめて蝦夷に渡った。1622年ごろ江戸に移り、竹屋権七の屋敷に潜伏していたが、1623年10月捕らえられる。高輪の札の辻で、50名の信者と共に火刑に処せられ殉教。
*6 ガルベス[1575-1623.12.4]
 日本205福者殉教者の1人。フランシスコ会司祭。
 スペインのバレンシア地方に生まれる。
 哲学と神学を履修した後、助祭に叙階され、1599年か1600年にバレンシアのフランシスコ会洗礼者ヨハネ管区に入会し、司祭に叙階される。1601年メキシコに渡り、その後フィリピンに渡航。ルソン島滞在の数年間も日本入国を目指して日本語を学んだ。そのかいあってディラオ在住日本人信徒の司牧を任された。
 1606年来日したが、1614年の宣教師追放令によってマニラに戻った。1618年水夫に変装し長崎に上陸。同地でディエゴ・デ・サンフランシスコに出会い、彼がソテロから依頼された伊達政宗宛の親書と贈り物を届けるために、仙台に派遣された。政宗の厚遇を受け重臣の邸内に礼拝所を設け、領内での宣教を許された。その後最上地区の宣教を任され、さらに1623年には、江戸の信徒の司牧も委任された。しかし、徳川家光によるキリシタン弾圧が激しくなり、鎌倉の信徒宅に立ち寄ったところを宿主と共に捕らえられ、江戸に送られ、高輪の札の辻で、50名の信者と共に火刑に処せられ殉教。
*7 甘糟右衛門[生年不詳-1629.1.12]
 殉教者。霊名ルイス。名は信綱。
 上杉景勝に仕えた清長の子と言われる。
 関ヶ原の合戦後、景勝は米沢に転封となった。1623年跡を継いだ上杉定勝に仕え300石を受けた。同地のキリシタンの中心人物であったため、定勝が家光の命によりキリシタンの一掃を誓ったときに棄教を強いられたが拒否したため、北山原において一族と共に斬首の刑により殉教。

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