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日本キリシタン物語
29.潜伏キリシタンとコンチリサンの祈り
1640年以降に日本に入ろうとした宣教師はすぐ捕らえられ、江戸の「キリシタン屋敷」に送られた。
徳川家光の晩年とその後継者家継の初めにキリシタンの取り締まりは、宗門改方*1井上筑後守の手に移った。踏絵、宗門改め、キリシタン類族帳、高札などが潜伏キリシタンに対する重苦しい雰囲気を作っていた。
ある地方では、キリシタンの団体が見つかると厳しい弾圧(崩れ)が行われて、血が流されることもあった。そのような状況にもかかわらず、キリシタンの子孫は信仰を守り続けて次の世代に伝えていた。その驚くべき事実にはいろいろの原因があった。
その地方の領主は、だれも、農民に手をかけることを望まなかった。そのため迫害者は、圧倒的に将軍とその老中たちであった。
宣教師たちは、庶民に対する宣教と司牧のために、日本の文化から学んだことを教会の信心会「組」の精神と合わせて、信徒の協力を得ていた。同宿、看坊、慈悲役などの活躍によって、庶民の宗教教育を行っていた。
マリア観音
イエズス会の宣教師は、主に聖母の組、御聖体の組、殉教の組、ミゼリコルディアの組を設立した。そのため迫害の結果で司祭がいなくなると、村全体がキリシタンであったため、組の指導者に教え方、*2水方(みずかた)、暦の係などの務めを与え、会長は、2人または3人の年寄りの助けを得て指導していた。
その司牧の活動には、信仰を守らせるために非常に効果的な祈りがあったことを忘れてはならない。それは「コンチリサンの祈り」と、それを説明する小冊*3「コンチリサンのりやく」である。
コンチリサンはポルトガル語で、痛悔または心を悔い改めるという意味の言葉で、すなわち個人が犯した罪をいみ嫌い、それを繰り返さないことを決心し、神のゆるしを願う。聖フランシスコ・ザビエルはモルッカス群島で1年間宣教して帰ったとき、その地に司祭がいなかったので、このような小冊を作って信者に与えた。
日本の宣教師たちは、これと同じようにして印刷されたものを村々に残した。迫害下の信者は寺で葬式をし、神社で神主の説教を聞き、絵踏みをもさせられた。絵踏みのたびに家に戻ると「コンチリサンのりやく」を誦み、神のゆるしを祈って「立ち返つた」。
故片岡弥吉氏が各地の「カクレ」の村を訪ねて、次のような事実を確認することができた。「コンチリサンのりやく」を持っていた村では、信仰が息づいていた。一方、何らかの理由でその小冊または祈りが失われた村では、信仰は次第に消えていった。
しかし、コンチリサンの祈りが潜伏した信徒の持つ唯一の祈りではなかった。日本の潜伏教会はよく祈る教会であった。家の中で祈り、畑で祈り、魚釣りでは小船で祈っていた。五島、平戸、外海、浦上が小さき者の祈りによって潤されていたが、「コンチリサンのりやく」の文章さえも、悩んでいた小さき者たちの心に信頼と慰めを注いでいた。
コンチリサンをするにあたり「第一の心得は、御憐れみ深いデウスは、わたしたち人間の御父であるので、いかなる罪を犯した人もその罪を悔い悲しみ、悪を改めて善に立ち返って神様の御助けを願いなさい。」
- *1 井上筑後守(政重)[1585年-1661.3.27]
- 江戸時代初期の幕臣、1640年に初代宗門改方に就任した。
通称清兵衛。遠江国に生まれる。1608年より、将軍徳川秀忠に仕え、大阪の陣に参加した。1625年に目付となる。
宗門改方として幕府の禁教政策の最高指導者であり、政重の邸宅は役所(切支丹屋敷)として使用され、後世に及んだ。
1658年、老齢のため辞職した。 - *2 水方(みずかた)
- 洗礼を授ける役。集落ごとに1名、組織の最高権威者で世襲制をとっていた。授け役とも言う。
- *3 コンチリサンのりやく(胡旡血利佐無の略)
- キリシタン書籍。痛悔の心得をしるした書。
1603年に出版されたらしいが、刊本は発見されていない。隠れキリシタンによる写本が数種伝えられている。