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祈りのひととき
「十字架の道行」……それは、イエスとともにする旅
キリスト者にとって、信仰の巡礼者として目指している神秘の中心にイエス・キリストの受肉、受難、死と復活があります。イエスがペトロに尋ねたように、「わたしをだれだというのか?」という問いに対して、わたしたちはどのように答えるでしょうか? 信仰者としてわたしたちは一人ひとり、イエスとともに旅をすることによって、その答えを見いだすように呼ばれています。
イエスは神との交わりの決定的で新しい道を開き、法を改革し、病人を癒し、苦しむ者を慰め、最悪の罪びとにさえ憐れみを示し、疎外された人とともにパンを分かち合い、神に呼ばれているその姿へと変容する道を教えてくれます。
わたしたちは現代において、キリストの弟子であるようにと呼ばれています。十字架の道行をする時に、わたしたちは、心重く、昔を懐かしみ過去にとらわれているわけではありません。まったくその反対です。この地上において神の国を建設するように呼ばれ、その土台となっている信仰を学ぶのです。十字架を抱擁しないかぎり、復活をも迎え入れることはできません。それほど単純なことであり、深遠な事実です。
しばらく立ち止まって各留を黙想し、イエスとその弟子としての自分について話されていることを思い巡らしてください。
イエスはなぜ死の宣告を受けたのか?
死の道具としての十字架を担うということは、
彼にとってどういう意味を持っていたのか?
3回も転んで立ち上がることがどうしてできたのでしょうか?
侮られ、つばきされている時に、母マリアに出会ったイエスは、
何を感じたのでしょうか?
キレネのシモンの助けを受け入れ、ヴェロニカの優しい慰めを受け、
エルサレムの婦人たちに彼のために泣かないようにと言った
そのことはどういう意味があったのでしょうか?
衣服をはぎ取られ、尊厳を失い、十字架に釘づけられ葬られて、
死から復活することは
イエスにとってどういうことだったのでしょうか?
そしてこれらの出来事は、現代のわたしたちにとって、
どのような意味があるのでしょうか?
イエスの受難と復活の秘儀により深く入り、わたしたち自身の平和への旅路を歩き続ける自分を見いだすことを祈り願っています。
※『やすらぎへの旅 ─ 十字架の道行の黙想』p.16~19より抜粋
ジョセフ・バーナーディン著、
アルホォンス・P・スピリー、ジェレミー・ラングフォード共編
廣戸直江訳 女子パウロ会刊2003