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祈りのひととき
十字架の道行(4) 『やすらぎへの旅 ─ 十字架の道行の黙想』
初めの祈り
すべての善と祝福の源である神よ、愛する御子の賜物を心から感謝します。わたしを回心へと導き、イエスとともにゴルゴタと十字架にいたる道を歩く勇気がもてるよう、わたしの思いと心と精神を変えてください。
第1留 イエス死刑の宣告をうける
自分の犯した重い犯罪のために断罪されることは、人生において非常に恐ろしい瞬間です。犯していない罪のために断罪されること、つまり無罪であるのに断罪されるということは、重大な不正義であるばかりか、個人として恥辱を受ける瞬間です。
十字架の道行の第一留は、数日前にイエスがエルサレムに凱旋者として入城された時とは、対照的な場面です。弟子たちの何人かは入城の時、興奮に舞い上がり大声で「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」(ルカ19・38)と、叫んだのでした。しかし今は、弟子たちが皆逃げ去った後に、イエスが一人だけ残されて立っておられると、群衆は死刑を求めて叫びます。「十字架につけろ!」
ルカ 2章20節~25節
愛する神よ、わたしもときどき自問自答します。ああ──そしてあなたに問います──
なぜわたしにこんな悪いことが起きたのか、と。
あなたに対するわたしの信仰と信頼を深め、あなたの愛から何ものもわたしを引き離すことはできないということを、心から信じるようにしてください。あなたの愛の確証があってこそ、わたしには欠けるものはないと言えるのです。
第2留 イエス十字架を担わされる
わたしたちの多くは聖金曜日の苦しみをへないで、復活の喜びを祝うほうがよいと思っています。イエスの受難・死と復活の予告を聞いて、抵抗を感じるのはペトロだけではありません。だから、第2留で十字架を担っておられるイエスの模範は、贖(あがな)いとしての苦しみの秘儀をもっと深く観想するようにとわたしたちを招いています。そのうえ、人びとから、そして神からさえも見放されるという特別な形の十字架を受け入れることをも助けてくれます。
マタイ 章27章32節
わたしの砦、わたしの力である神よ、わたしの人生で出合う十字架を受け止め、抱きしることさえできる恵みを与えてください。あなたの愛する御子の真実の弟子であるといことが、何を意味するかを教えてください。わたしの人間的弱さを、確固たる信仰に変てください。
第3留 イエスはじめて倒れる
一般の人には「転ぶ」ということは、誘惑に負けることと受け取られがちです。しかしながら、ゴルゴタに向かっていく途中でイエスが初めて倒れられたのは、本当に十字架の重さとその苦痛に耐えかねたからです。原因がはっきりわかっていても、あるいは他人のせいであるにしても、転ぶということはとても恥ずかしいものです。とにかく倒れるということは、弱さのしるしであって自尊心が傷つけられる行為です。
しかし、大事なのは、たとえ倒れたとしても、気を取り直してまた立ち上り前向きに歩きつづけるかどうかです。
詩編 56 2~4
すべての命の源である神よ、命というかけがえのない賜物を感謝します。わたしが自分の命にしがみつくことなく、自由になれるように助けてください。人生の重荷に耐えかねて倒れてしまう時、命の終わりが近づいている時でさえ、また立ち上がれるように助けてください。
第4留 イエスみ母に会われる
ゴルゴタへの道の途中で母と出会われるイエスを思う時、エルサレムの神殿で初めてわが子をささげ、預言者シメオンが「あなたの心は槍で貫かれる」と言った言葉を受けた母の心がよくわかります(ルカ2.22~35参照)。しかし、この第4留には、まっ先に目に映るものよりもっと大切なことが秘められています。
福音の中のマリアは、勇気と力に満ちた女性です。エデンの園のエバと違って、マリアはご託身の時だけでなく一生涯をとおして神に「はい」と応えました。本当に、彼女は神への信頼と信仰ゆえに最初のキリストの弟子と言えるでしょう。だからこそ、マリアはわたしたち一人ひとりにとってこの世の旅路における模範なのです。
ルカ 2章34節~35節
知恵と聖性の神よ、時にはわたしも人生とその挑戦から逃れたいと感じることを認めます。そして時には、あなたがよくご存じのように逃れてしまうことさえあります。マリアに倣って、わたしのすべてをあなたにゆだねられるよう助けてください。
第5留 イエス、クレネのシモンの助力をうける
シモンがイエスの十字架を担うのを助けるようにと、何らかの形で押し付けられたと想像することは、むずかしくありません。シモンは、畑からの帰りで、きっと疲れていたにちがいないし、十字架に磔(はりつけ)にされる人のための行列にまきこまれたくないと、当然思っていたことでしょう。
わたしたちも、面倒なことにはかかわりたくないから、おせっかいはいけない、と言い訳をしたくなるのですから、このときのシモンのためらいがよくわかります。
しかし、神は隣人を助けるようにとわたしたちに呼びかけておられます。
ルカ 23章26節
わたしの岩、わたしの救い主である神よ、キレネのシモンの模範と、わたしとともに重荷を担ってくださる御子イエスをお与えくださったことに感謝します。イエスとともに並んで歩み、彼の助けによってその軛(くびき)を自分の肩にとって担い、同時に他の人が自分の重荷を担うことができるように助けてあげられるようにしてください。
第6留 イエス、ヴェロニカより布をうけとる
イエスを助けるようにと強いられたキレネのシモンと違って、ヴェロニカは、苦しんでいる人間イエスと対面した時、深い憐れみの心から、即座に、自分から行動しました。
ずっと今までだれをも拒まず、あらゆる必要に応えて人を助けてきたイエスが、だれにも目をかけられず、助けの手をのべる者もいないまま十字架の道を歩まれる姿を見る時、わたしたちの心はゆさぶられる思いがします。
しかし、この第6留の場面で、イエスの苦しみを少しでも和らげようとするヴェロニカの姿に触れて、わたしたちは慰められ、励まされるのです。彼女の行為をとおして, わたしたちも、この地上において復活されたキリストの目、耳、手となっているのだということを教えられるのです。
マタイ 25章34節~36節
聖なる父よ、わたしが知りたいのは第6留で起きていることではなく、ヴェロニカのことです。でも、何よりも励みになるのは、神の国を建設するわたしたち一人ひとりに、その役割を示してくれる、彼女の模範です。人びとが必要としていることを見極め、自分にできるかぎり、それを助ける力をお与えください。
第7留 イエス再び倒れる
第3留で見たように、倒れるということは、人間の弱さのしるしです。倒れることは、人間として当然起こり得ることとは知りながらも、わたしたちは少なくとも気まずい思いをし、最悪の場合はそれによって無気力になってしまいます。いったん転んで立ち上がっても、二度目の転倒から立ち直ることはもっとむずかしいとわかっているので、また転ぶことを非常に恐れます。
しかし、第7留で、イエスはわたしたちに、立ち直ることは可能であるだけでなく、人生の旅路をつづけるためには、どうしても必要な条件だと教えます。
詩編 34 18~20
主よ、あなたの顔の光をわたしに照らしてください。わたしは自分の弱さを認めます。自分の信仰や価値観が試され、攻撃された時に、しっかりと抵抗できないこともあります。わたしが倒れる時、あなたの助けによって立ち直り、あなたのみ国に向かって突き進めるよう、導いてください。
第8留 イエス、エルサレムの婦人らを慰める
第8留は、いちばん理解しにくい場面かもしれません。このエルサレムの女性たちはだれなのでしょう。その正体がそれ以上わからないままで、何か不可思議な、神秘に似た気持ちを残しています。しかしここで何が大切かというと、その女性たちに、イエスがどのように対応されたかということです。
実際には、彼のために泣く代わりに、彼の悲運から何かを学ぶようにと諭されます。彼女たちも、その子どもたちも、いずれは悪の力と対決しなければならないことを警告されます。主の忠告をよく考えると、十字架の道をイエスとともに歩みさえすれば悪の力から守られる、というものではないということを、わたしたちは前よりもっとはっきりと悟るでしょう。
ルカ 23章27節~31節
神よ、わたしはあなたのうちに逃れます。わたしの生活の中で、あなたがいつもともにいてくださり、わたしが一人で歩いているのではないということをわからせてください。エルサレムの女性たちと、そしてあなたの子どもたちとともに固く手を取り合って、わたしたちを打ちのめそうとする悪の力に立ち向かうことができるよう、助けてください。
第9留 イエス三度倒れる
終わりは近づいています。イエスが力尽きて三度お倒れになった時、再び立ち上がるにはあまりにも困難で耐えがたい苦しみでした。死は決定的な瞬間で、最終的に立ち直れない「転倒」なのです。しかし、イエスの十字架の道行とその裏にある復活の栄光は、ここで決して終わることができないのです。彼の使命を果たすためにもう一度、立ち上がらなければならないのです。
詩編 22 15~16
わたしの救い主である神よ、わたしに対するあなたの愛への信頼と信仰を深めてください。あなたの助けがあるならば、わたしの巡礼の旅路におけるどんな障害物にも直面できると信じています。しかしそれだからと言って、わたしの恐れが消え、不信感と心配がなくなるわけではありません。どうぞ、わたしの弱さをゆるし、毎日必要としている力を与えてください。
第10留 イエス衣をはがれる
三度転んで最終的に起き上がってから、イエスは十字架の道行の終着点にたどり着かれました。イエスの着ておられた衣服をだれが手にするか兵士たちが賭けをしているあいだ、敵意に満ちた群衆の前でイエスは衣服をはがれ、裸のままゴルゴタの丘に立っておられる姿をわたしたちは眺めます。
主の前に裸で立つというのは、一方ではこのうえない屈辱ではありますが、他方では正直に、謙虚に、ありのままの自分をさらけだすことを意味するのです。それはとてもむずかしいこと? そうです。しかし、真の信仰をもつ者にとっては不可能なことではありません。
ヨハネ 19章23節~24節
主なる神よ、何の気遣いも取り繕いもなく、ありのままであなたの前に立ったり座ったり、ひざまずいたりすることはむずかしいことです。もっときびしいことは、わたしの旅においてあなたにすべてを任せることです。わたしは自分の人生の歩みを自分で選びたいのです。あなたにすべてをさしだして、心をささげることができるように、あなたに耳を傾けられるように助けてください。
第11留 イエス十字架にくぎ付けにされる
あたかも十字架への道行の苦しみだけではまだ足りないかのように、イエスは十字架に釘づけにされる残酷さに耐えなければなりませんでした。それは暴力による残虐な死に方で見るに耐えない光景でした──、暴力が横行している現代の文化においてさえ耐えられないものでした。
ルカ 23章33節~44節
神よ、十字架に釘づけにされた主を眺めることはむずかしいです。しかし、わたしが主とともに十字架につけられるということは、もっと現実的に恐ろしいことです。どうぞ、わたしの毎日の十字架を抱きしめ、十字架につけられた主と一致し、いつかは復活された主とひとつになることができるように助けてください。
第12留 イエス十字架に死す
十字架の前に立つことは決してやさしくはないと、福音史家はよく知っていました。マルコの福音では、その午後、ゴルゴタの丘にはイエスの親しい人が立っていたとは、何も記されていません。
マタイの福音ではガリラヤからイエスにずっとついて来ていた大勢の女性が、遠くのほうから眺めながらまわりに立っていたと書いてあります(27.55参照)。ルカでも似たようなことが書いてあります。「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」(23.49)。
イエスの死を見届けるには遠く離れたところ立っているほうが安全で、しやすかったようです。しかしわたしたちは、母マリアや他の数人の女性と愛する弟子と一緒に、近くに立つように招かれています。
ヨハネ 19章25節~30節
神よ、わたしの神よ、マリアとともに十字架のもとに立って御子の死を見つめることはなんと恐ろしいことでしょう。二人ともあなたに“お言葉どおり、この身になりますように”と言って、新しいアダムと新しいエバになられました。死に直面する時にさえ、あなたに「はい」と応えることは、愛する弟子としての根本的な態度であることをよくわかっています。わたしも「はい」と言って、心から実行に移せるように助けてください。
第13留 イエス十字架より下ろされる
第13留は暗闇に覆われ、不気味な沈黙に包まれています。悲しみの時です。しかし同時にそれは静かな観想のひとときでもあります。マリアが息絶えた息子の遺体を膝の上に抱き寄せるのを見ると、どんな苦しい時も喜びの時も家族がいかに大切かをわたしたちは思い知らされます。
ミケランジェロの彫刻、ピエタ(悲しみの聖母)は、イエスを抱きかかえるマリアの心境を雄弁に語っています。失った者の悲しみ、死を超えて愛する母の心、イエスの苦しみがやっと終わったという安堵(あんど)の気持ち。
マルコ 15章40節~46節
すべてのつくり主である神よ、埋葬の準備のため御子を手放す前に、遺体を抱きしめる母マリアのそばに立っていると心がゆさぶられます。
多くの人が、家族に抱きしめられたり、慰めを受けることなく死に、また遺体を手厚く葬られることなしに殺されたり、死んだりしていきます。
主よどうぞ、出会うすべての人はわたしの神の家族の兄弟姉妹であることを悟り、それに従って行動することができるように助けてください。
第14留 イエス墓に葬られる
ヨハネの福音の、イエスがラザロを死からよみがえらせた話と、ご自分のさし迫った死の記述とをうまく織りなす技法は、非常に印象深いものがあります。このふたつの話を結ぶ神学的糸は、イエスが復活であり命であるという信仰です。
ルカ 23章53節~56節
愛する神よ、わたしはイエスが復活であり命であることを信じます。どうぞ、わたしがあなたのいやしの愛の道具となり、人びとが新しい命を経験し、あなたの憐れみと愛のうちに生きられるように助けてください。
第15留 イエスは死から復活される
キリストにおいて自分に死に、新しい命へとよみがえることは、イエスの教えの中心テーマです。イエスはわたしたちにその道を示し、神は十字架と埋葬の後、イエスをよみがえらせたのでした。
キリスト者の信仰にとってこの事実があまりに重要なので、わたしたちは特別な方法で毎日曜日キリストの復活を祝い、聖体祭儀で主の死と復活を思い出すのです。洗礼においてわたしたちは自分に死に、復活された主において新しい命に入るのだと教えられています。この新しい命を生きぬくことが、日々新たな挑戦なのです。
コリント1 15章3節~17節
すべての慰めの神よ、愛する御子の死と復活は人間家族を永遠に変えました。わたしのキリスト者としての希望は、わたしの命と共同体の命のうちに現存する復活された主にもとづいています。世界中にその命が行き渡りますように。希望にもとづいて、あなたがわたしや皆をとても愛してくださっているという信頼のうちに、この巡礼の道を、すべての兄弟姉妹とともに歩くことができますように。
※「十字架の道行の黙想」は、『やすらぎへの旅』の編者の言葉です。
『やすらぎへの旅 ── 十字架の道行の黙想』
ジョセフ・バーナーディン著
アルホォンス・P・スピリー、ジェレミー・ラングフォード共編
廣戸直江訳 女子パウロ会刊2003