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祈りのひととき
ロザリオの祈り-(1)
ことば……森 一弘司教
喜びの玄義
喜びの玄義
第1玄義
「喜びなさい、恵に満ちたマリア。主はあなたと共にまします・・・」と大天使ガブリエルは聖霊によるマリアの懐胎、救い主イエスの誕生を告げます。「私は主のはしためです。みことばのとおりになりますように」とマリアはすべてを神に委ねます(ルカ1.26~38参照)。
「喜びなさい」という大天使の言葉の背後に「ごらんください。顧みてください」と、自分たちの窮状を訴え、「神よ、早く来てください」「いつまで黙っておられるのですか」と、救いを待ち望む旧約聖書の人々の切実な叫びがあります。
その叫び、祈りに答えて、神が今マリアをとおして救いを実現しようとします。そこにマリアの喜びがあります。それは同時に人類の喜びでもあるのです。
しかし、マリアはちゅうちょします。戸惑いながら、マリアは神を信頼し、これからのすべてを神のみ旨の中に委ねます。「みことばのとおりになりますように」と。
マリアの受託。それは、闇と絶望の中に閉ざされていた人類に、光あふれる希望の世界に扉を開くものです。
主の祈り(1回) アヴェ・マリアの祈り(10回) 栄唱(1回)
第2玄義
おとめマリアは、エリザベトを助けるため、急いで彼女のもとに行きます。マリアの訪れに、エリザベトとその胎内の子は喜びに包まれます。エリザベトは、マリアの幸せの秘訣を指摘します。「主の言葉が必ず実現すると信じたあなたは、幸いです」と(ルカ1.39~45参照)。
神のなさろうとすること、そして神のなさり方は、小さな人間の思いをはるかに越えます。それを見極めることのできるものはだれもいません。たとえ、それが人間の目から見たら不可解と思えても、そこに神の愛があり導きがあると信じて委ねるとき、人間の心に深い安らぎと落ち着きが宿ります。マリアの幸せは、愛の神の手の中にすべてをゆだねてしまった信仰から湧きあふれてくるものです、とエリザベトは指摘します。
神の愛の働きに包まれていることを信じたマリアの喜びが、エリザベトにそしてその胎内の子に伝わっていきます。
主の祈り(1回) アヴェ・マリアの祈り(10回) 栄唱(1回)
第3玄義
マリアは月が満ちて初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせます。天使たちは、羊飼いたちに、その子が救い主であり人類の希望であることを示します。「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と(ルカ2.10~11参照)。
泊まる宿もなく、家畜小屋で、しかも粗末な布にくるまれて飼い葉桶に眠るイエスを、だれが救いい主として考えることができましょう。そこには超越した神の力強さも輝きもありません。人間の常識からは、貧しさの極みにあるイエスの姿に、人類を救う力強さがあると言い切ることはできません。
マリアや羊飼いたちが、富も権力もない幼いイエスの中に信仰に照らされて見たものは、恐れを取り除いて人類の一人ひとりを優しく招く、柔和で謙虚な愛です。人類を救うイエスの力は愛にあります。
主の祈り(1回) アヴェ・マリアの祈り(10回) 栄唱(1回)
第4玄義
マリアとヨゼフは、イエスを神殿にささげます。清めの掟に定められたことをすべて果たすためです。そこでシメオンとアンナに出会います。シメオンはイエスの神秘を明かし、マリアの運命を預言します。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と(ルカ2.22~38参照)。
すくすくと成長するわが子イエスを神殿にささげることは、マリアにとっては喜びであったでしょう。また、イエスが多くの人々の喜びとなるというシメオンの言葉は、母としてのマリアにとっては誇らしいことであったにちがいありません。しかし、シメオンは同時にマリアの心が剣で貫かれると預言します。たとえ救い主の母であっても、悲しみや苦しみをさけることはゆるされません。喜びと誇り、悲しみと屈辱。マリアは、イエスとのかかわりの中で、それらすべてを受け取っていきます。
主の祈り(1回) アヴェ・マリアの祈り(10回) 栄唱(1回)
第5玄義
エルサレムへの巡礼の帰り道、マリアとヨゼフはイエスを見失います。2人は3日後、神殿の境内で学者たちと議論しているイエスを見い出します。両親の心配を無視してイエスは言います。「わたしが自分の父の家にいるのは、あたりまえだということを知らなかったのですか」(ルカ2.41~51参照)。
愛する者を見失うとき、心乱れ、心配する、それは自然なことです。しかし、いつまでも自分の目の届くところに留めておこうとすることは、間違いです。それは神に対する越権です。すべての人の人生は、神の手の中にあり、神から委ねられ、神の望みを果たすために、愛する者の手から離れていかなければならないものです。神が主であり、人間は従です。この厳粛な事実を、マリアはイエスを見失った出来事から学びます。
主の祈り(1回) アヴェ・マリアの祈り(10回) 栄唱(1回)
苦しみの玄義
第1玄義
十字架を明日に控えて、イエスはゲッセマネの園で祈ります。苦しみ悶えながら「父よ、み心ならこの杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしの願いではなくみ心のままに」(マタイ26.36~46、マルコ14,32~42、ルカ22.39~46参照)。
イエスは「神のみ旨を行うために人となった」。天の父のみ旨を受け止め、それに答えること、それがイエスの人生の中心になるものです。それを生きてこそ、イエスの生涯が完成されるのです。しかし今、十字架を前にしてイエスの人間性はおびえてしまします。「できるならば、避けたい」と。召命の危機。
苦痛を避けたい、楽な道を生きたい、それは人間の本能です。人間としてのイエスはそれを選択することができます。しかし、もし、本能に従うならば神のしもべとしてのこれまでの歩みが無駄に帰すだけでなく、イエスの存在意義が失われてしまいます。神のしもべとして最も大切にしなければならないものをしっかりと見つめ、それを生きるために神の支えを求める。そのためにイエスは祈ります。
マリアもイエスがその召命に応えられるよう、共に祈っていたにちがいありません。
主の祈り(1回) アヴェ・マリアの祈り(10回) 栄唱(1回)
第2玄義
群衆の圧力に負けたピラトは、盗賊を釈放し、イエスに判決をくだします(マタイ27.26、マルコ15.15、ヨハネ19.1参照)。
無実のイエスを人々は極刑に追いやっていきます。司祭長、長老、学者たちも、神を冒涜するという口実のもとに、イエスを抹殺しようとします。イエスが自分たちの描く理想の邪魔になると判断したからです。ピラトも自分の立場をまもるために、非がないと知りながら判決をくだします。長老たちに扇動された群衆は、ピラトに圧力をかけます。
ひたすら人々の救いを求め、そのためだけに生きてきたイエスが理解されず、逆い闇に葬られようとします。この世界の醜さ。
マリアの心はイエスに対する判決を聞いて、深く傷つけられながら、この世界の人々の救いのために祈ったに違いありません。
主の祈り(1回) アヴェ・マリアの祈り(10回) 栄唱(1回)
第3玄義
兵士たちは部隊の全員を集め、イエスに紫の服を着せ、いばらの冠をかぶらせ、イエスを侮辱します(マタイ27.29、マルコ15.17参照)。
イエスの中に神のしもべメシアの姿が実現します。
「みるべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」(イザヤ53.2,3)。
軽蔑され、無視され、否定されていくキリストの歩みの中に、イザヤが預言していたメシアの姿が具体化します。
人々の罪を負い、その救いのために自ら苦しみの極みに向かって歩むわが子イエスの姿に、マリアは涙しながら、人間の常識を遥かに越えた救いの神秘に信仰を深めていったにちがいありません。
主の祈り(1回) アヴェ・マリアの祈り(10回) 栄唱(1回)
第4玄義
十字架を背負ってカルワリオの丘に向かうイエスは、自分の苦しみを忘れて、悲しむ婦人たちに慰めを与えます(ルカ23.26~33、ヨハネ19.16~17参照)。
深夜に逮捕され、裁判にかけられ、群衆の前にさらされ、さらに兵隊たちに鞭打たれ、重い十字架を背負わされイエスの身体は、疲れきっていたにちがいありません。しかし、イエスは、自分の体の苦痛を忘れ、婦人たちを慰めます。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子どもたちのために泣け。」最後の最後まで人々の救いに心を配り、愛しつづけるイエス。計り知れない、深いイエスの愛。
イエスの一挙手一投足に注意深く目を注いでいたマリアは、その深いイエスの愛の心にご自分の心を合わせていくことを学んだにちがいありません。
主の祈り(1回) アヴェ・マリアの祈り(10回) 栄唱(1回)
第5玄義
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」イエスは絶望の叫びをあげながら息絶えます(マタイ27.33~56、マルコ15.23~41、ルカ23.33~49、ヨハネ19.18~37参照)。
イエスは絶望の中に息絶えました。それは、わたしたちの救いのためのいけにえであったのです。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちのとがのためだった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」と、イザヤが預言したようにキリストの十字架の死によって、わたしたちは救われました。
わが子イエスの死を前にしたマリアの苦しみも、深いものであったにちがいありません。マリアはその苦しみを、わたしたちのためにイエスに合わせ、イエスとともにささげたにちがいありません。
主の祈り(1回) アヴェ・マリアの祈り(10回) 栄唱(1回)
栄えの玄義
第1玄義
安息日が終わった週の初め、イエスの墓を訪れた婦人たちは、墓が空となり、復活したイエスに出会います(マタイ28.1~15、マルコ16.1~18、ルカ24.1~49、ヨハネ20.1~30参照)。
十字架上のイエスに向かって人々は叫んで言いました。「今すぐ、十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。神に頼っているが、神のみ心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と。
復活は、実に人々のあざけりに対する答えです。イエスの生涯が父なる神のみ心にかなったものであること、父なる神の特別ないとし子であること、そして義人の死は滅びではなく、永遠の命につながるものであることを明らかにしたいのです。
復活は、わが子イエスの死によって暗く閉ざされていたマリアの心にも、永遠の希望の輝きを与えたにちがいありません。
主の祈り(1回) アヴェ・マリアの祈り(10回) 栄唱(1回)
第2玄義
主イエスは、弟子たちの目前で、天にあげられ、神の右の座につかれます(マルコ16.19、ルカ24.50~53、使徒1.9~11参照)。
天の高みに上げられて、神の右の座につくキリストは、万物の主として君臨します。しかし、パウロが指摘するように、その前にキリストのへりくだりがあったことを忘てはなりません。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にしてしもべの身分になり……へりくだって、死にいたるまで、それも十字架の死にいたるまで従順でした。このため、神はキリストを高くあげ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。……
キリストとともに歩み、キリストとともに苦しまれたマリアは、天に上げられます。
主の祈り(1回) アヴェ・マリアの祈り(10回) 栄唱(1回)
第3玄義
天に昇られたキリストは、弟子たちに聖霊を送られます(使徒2.1~4参照)。
弟子たちはマリアとともに祈っていたと、聖書は伝えます。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて祈っていた。」
マリアを中心にして祈りつづけた弟子たちの上にくだる聖霊は、弟子たちを照らし、強め、聖化し、確信と勇気に満ちた使徒にかえてしまいます。教会が誕生し、宣教活動が始まります。
教会の中心に、祈るマリアがいます。
主の祈り(1回) アヴェ・マリアの祈り(10回) 栄唱(1回)
第4玄義
地上の生活を終えられたマリアは、栄光に包まれて、天に上げられます(教会憲章 59参照)。
「主はその腕の力をふるい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げられる。……
今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者というでしょう」
キリストともに歩み、キリストとともに苦しみ、キリストとともに神にすべてをささげたマリアが、キリストとともに天に上げられるのは、当然なことです。
主の祈り(1回) アヴェ・マリアの祈り(10回) 栄唱(1回)
第5玄義
マリアはすべての人類の母として、人々のために祈り、必要な恵みを取り次ぎます(黙示録12.1、詩編45.10参照)。
息を引き取る寸前、キリストはマリアが人類の母となることを明かします。このときから、マリアは人類の救いのために心を配り、そのために祈り続けます。たとえわたしたちが、マリアが母であることに気づかず、身勝手な生き方をしていても、マリアはわたしたち罪人の救いのために祈っておられます。
「母と呼ぶ 声を持たじ マリアの愛はも」
すべての救いの恵みは、マリアの祈りによるものです。
主の祈り(1回) アヴェ・マリアの祈り(10回) 栄唱(1回)