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新世紀ルーツへの巡礼
青年時代(1)
自分の歴史で祈る
だれの人生史にも、光と闇があります。
ヤコブにも、人知れぬざ折のとき、友人の死、家庭の状況などと困難なときがありました。これらをとおして彼はどう祈っていったのでしょうか。
かれは手記にこうつづっています。
人はいつもあまたの不完全、欠点、誤り、不足や自分の行動についての疑いを持っているので、神のあわれみのみ手に全く身を委ねて、その導きに身を任せる必要がある。 けっして摂理のみ手を強いることがないように。
ある考えを静かに、穏やかに心にあたためて、それが熟するのを待つ必要がたびたびあった。
主は、そのようなとき、かれが短い期間、床につくようにはからわれた。
自室に閉じこもってのち、かれは元気を回復し、前よりもはっきりとした視野をもって部屋を出、企画したことを手がけはじめるのだった。霊的指導司祭に計画案を提出し、場合によってはこれを訂正したり、あるいは筆を加えたりした。そして必要なときには、教会の権威にも計画案を提出した。
いつでも機が熟していたわけではなかった。しかし主はしもべに仕事を任せ、かれが間違うのも放置しておかれ、こうして機が熟していないことをわからせてくださった。しかし主はやがて自ら介入して、しもべの過ちや間違いを償(つぐの)ってくださるのだった 。
霊的手記より
私たちのシードの旅をたどってみると、シードは、創造性にも開かれていますが、その反面、世界に無防備なところもあるので、傷つけられたり、痛い、悲しい体験もあります。
大人は、生きてきた経験から、外からの攻撃を想定してなんらかの鎧(よろい)、殻(から)をつけているので、傷つくことも少ないのです。無防備なシードは、受けるパンチ、痛みもおおきいのものです。そして、その受けた痛みをなかなか忘れることができません。
私たちはどうするのでしょうか。
受ける痛みを避けるため、無意識の中で鎧をまとったり、殻のなかに閉じこもったりします。鎧や殻は、ときとして、人とコミュニケーション、交わり、ワクワク生きることを阻害しています。そして、なかなかそれに気がつきません。この鎧や殻を取り去ろうとしても、なかなか取り去ることは出来ません。それは、あのときの痛みが、再び自分の身におこるのを、何とかして避けたいからです。殻のまま、閉じ込めたままにしておくこともできますが、そのままでは決して豊かな実りをもたらすことはできません。
私たちの痛みと、鎧や殻を思いおこしてみましょう。といってもこれを思いおこすことは、誰にでも苦痛を伴います。それは、そのときのあなたをもう一度思いだすことになるからです。
時がくるまで殻はシードを、私を守ってくれるものでした。時がきたら、芽をだすときがきたら、そこから出ることができます。手放すことができます。そのひとつの方法は、受けた痛みを認める、承認することなのです。
あの痛みがなければ、今の私はなかったのです。事実を事実として認めるとき、私の中に再創造がおこなわれます。
私の中の心の鎧、シードの殻はなんでしょうか。
自分を人生から締め出した瞬間のすべて、自分や他者におもいやりや、いつくしみをむけることのできなかったあの日、あのとき、満たされなかった夢、なし遂げられなかった悔いのすべてが心の中の固い鎧、固い殻をつくっています。
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今日、私は自分自身を思いおこします。
というのも、神が私を思いだしてくださっているからです。
神は、どんな小さいことも覚えてくださっています。
生活がどんな状況であっても、
神は決して忘れることはなさいません。
神は、それほどまでに私を受け入れ、愛してくださっています。
私の一つひとつが覚えられています。
心にかけられています。
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私の生きてきた、歩んできたなかで、
- 失敗した、間違った、ずれたと思える決断、これだけは許せないと思っていること、人には知られたくないと思っていることなどをそのまま書き出してみましょう。
-そのこと自体よりも、それに伴った感情(痛み、腹立たしさ、さみしさ……)に注意をむけてみましょう。
-そして、そのまま、この事実を認めましょう。 - この出来事、このかかわり、この失敗……を神はどうご覧になっているのでしょうか。
- 今、神は私になにを語っておられるでしょうか。