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新世紀ルーツへの巡礼
広い原っぱへ、基礎固めの時
サヴェリオ・ボアノ神父 イタリア国営放送のインタビューの記録資料
1971年11月26日、ヤコブ・アルベリオーネ神父が死去されました。87歳でした。教皇パウロ6世がその病床を訪問されたのは、神父が息をひきとるたった一時間前のことでした。「今世紀の一大驚異」、これは教皇が彼を定義していった言葉です。……
さて、アルベリオーネ神父とはどういう人だったのでしょうか。天才的組織家、司祭服を着たマネージャー、それとも……使徒?
ファブリツィオ・カルドゥッチ・マイデルがインタビューするのは、アルベリオーネ神父の最初からの弟子のひとりで、その巨大な事業のはじめから協力してきた78歳の司祭です。その名は、ベネデット・サヴェリオ・ボアノ。……
マイデル氏:
ボアノ神父様、15歳の少年のあなたが会ったアルベリオーネ神父はどんな人でしたか。見た目に……。
ボアノ神父:
身体的に、アルベリオーネ神父はきわめて弱い人、病弱な体の人でした。ところが、うちに宿している精神的エネルギーはすごいもので、彼のなかにわきたぎっていた理想をたいしてわかっていなかった私たちを夢中にさせ、熱烈な行動と善に向かわせる力がありました。
マイデル氏:
今、マス・コミのメディアと呼んでいるもの、当時は出版が主流でしたが、それらを使って福音を伝えるという理想は、彼のなかにどのように生まれてきたのでしょうね。
ボアノ神父:
19世紀末と20世紀のはじめの間の夜、アルバ司教座聖堂での4時間の礼拝のときに彼に示されたものです。より迅速で効果的な手段を使って人々を救う、当時の最も効果的コミュニケーション手段だった出版を使って福音を伝える。これが目指していたことです。大衆のふところ深く浸透する、善に対抗して反対者が使う同じ手段を使って戦う。
マイデル氏:
当時の状況といえば、出版は全面的にカトリック以外の手のなかにあったわけですから。
ボアノ神父:
第4の権力と呼ばれて、あらゆることを支配していました。だからこそ、彼はそれが欲しかったのです。しかし、それには適性のある人材とそうとうの経済力が必要でした。
アルベリオーネ神父は教会に奉仕する修道会をはじめたかったのです。当時としては革命的ともいえるその考えが公になると、アルバ大神学校の青年が何人か彼に従いました。私もそのひとりでした。
しかし、教区の司祭団は全然共鳴していませんでした。
マイデル氏:
どうしてでしたか。
ボアノ神父:
当時は違う宣教方法が行われていましたから、印刷物を使うとか福音書そのものを使うというのは新しいことでした。今とは万事が違いました。
ですから、この新しい理想は間違っていると考えられたのでした。
アルベリオーネ神父は「変人」だ、ついていったら幻滅の悲哀を体験するだけだ、といっていました。確かに訴えてはいても、何も見えていませんでしたから。
まず建物を建て、印刷機や資材を大量に購入しました。破産するにきまっているとだれもが思っていました。アルベリオーネ神父を支持していたのは、いま列福調査中の司教座参事会員フランシスコ・キエザ神父と、アルバのレ司教だけでした。
「やらせておきなさい。神が望まれたことなら成功します。さもなければ自然消滅するでしょう」というこの司教の言葉は有名になっています。歴史は、それが神の事業であったことをはっきりと実証しました。
「使命の美しさ、その重大性をよく悟ったら、朝から晩まで主に賛美の歌をうたい続けるだろう」といっていたアルベリオーネ神父に励まされて、私たちは熱心に働きました。
マイデル氏:
あなた方こそ、生まれつつあったこの事業の新しさをはっきりと示した人たちなのですね。
ボアノ神父:
彼の言葉、彼の生きざま、彼の情熱、彼の励ましに引きつけられていた、というのが実態でした。
アルベリオーネ神父が、全司祭に無料贈呈していた『司牧生活』という雑誌をとおして、事業はイタリア全土に知られ、間もなく何百人もの青少年がアルバにやってきました。
そこで、新しい家をいくつか建築しなければならなくなり、新しい雑誌の印刷や何千何万という福音書の印刷、キリスト教的養成の本や他のものの印刷のために新しい機械を買い入れなければならなくなりました。
マイデル氏:
お金はどうにか入ってきたわけですね……。
ボアノ神父:
いつでも……突然入ってきていました。
ところが、仕事への意欲はすごい、あらゆる心配事はふりかかってくる、なかでも経済上の心配はたいへんなものでした。そこで、自分の健康はかまわない、といったことが、創立者にはとんでもない結果をひき起こしました。アルベリオーネ神父は、結核、しかも、とりわけ悪性のものにとりつかれました。
みなにとって苦しい心配なときでした。祈りはもちろん、彼の身代わりになるといって命をささげた人もありました。医師たちの判断は、2、3か月の寿命、ということでした。ところが、転地してランゲ地方のベネヴェッロ村の主任司祭のもとでしばらく過ごしてから、杖につかまって彼は戻ってきました。階段を昇ることもひとりではできませんでしたが、うちにある精神力の強烈さはみなを驚かせました。
マイデル氏:
神父様はよく覚えておられて、話しながら目に見えるようなのでしょう。
ボアノ神父:
そうです。見えるようです。いっしょにいましたから。
アルベリオーネ神父は信仰の人、信仰が実生活に生きていた人でした。まだ手に入れてもいない土地を私たちに見せて、「ここに聖パウロにささげた教会堂が建ち、隣接地にいくつかの建物を建て、全部が聖パウロの教会堂を中心にして、そこに向いているようになります。そこには、聖体の主がおいでになり、聖体がいっさいの中心になります」といっていました。
「ここには貨車が入ってきて、私たちの本、私たちが印刷した本を積み出していくようになります」ともいっていました。
マイデル氏:
事業の将来の発展の姿を素描したということなのでしょう……。
ボアノ神父:
特に『ファミリア・クリスティアナ(キリスト者の家庭)』誌のためには、現実に何両もの貨車が毎週『ファミリア・クリスティアナ』誌を積み出しに入ってきています。
マイデル氏:
当時としては、考えられないことだったでしょうが……。
ボアノ神父:
こうした話を聞いて、私たちは夢中になったものでした。
彼は私にこういったことがありました。「何かを決定しなければならないとき、まず祈りなさい。相談しなさい、熟考しなさい。しかし、神のご意志だと感じたら、自分で決断しなさい。何をしなければならないかがわからないとき、何かをしはじめてみなさい。何かする人は間違いを犯しますが、何もしない人は出発点から間違っているからです」と。
マイデル氏:
そういうことが彼の成功の秘訣のようですね……。
ボアノ神父:
成功の…… そうです。
外国への支部創設といった大仕事に着手する、しかも神の摂理以外に頼るものがない。51年前も、旅費のためのお金さえなしで私をブラジルに派遣しました。同様に、40年前にはポルトガルに派遣しました。筋金入りの信仰が要求されます。
ブラジルで私は死にそうになり、医師たちは6カ月はもたないだろう、と診断していました。アルベリオーネ神父は私に休養を命じ、治る、といっていました。そして、6カ月。完全に健康が戻り、シチリアで働き、その後はローマで働き続けました。
なんといっても、アルベリオーネ神父はまことに祈りの人でした。出遭う困難を説明しながら、外国からアルベリオーネ神父に手紙を書きますと、彼は「こうこうしかじかやりなさい。私は祈っています」と返事をくれたものです。
「私は祈っています」というこのふた言葉が手紙にあれば、必ず首尾よくいくという確信が私にはありました。
私にいっていました。朝、いっさいを主の御手のなかに入れ、パウロ家族の必要を聖パウロや使徒の女王、煉獄(れんごく)の霊魂、聖ヨセフ、守護の天使、師イエスに申しあげ、お願いしています、と。
マイデル氏:
あなたと同じことを共感して、ということでしょうか……。
ボアノ神父:
そういうことです。こうもいっていました。困難にぶつかったら、ロザリオを手に取って、問題を思いめぐらしながらロザリオを唱えなさい。答えを得ます、と。
何回も何回もこうして解決を得ました。とくに窮地に追いこまれたときなど。
ここでインタビューを終えますが、私たちがはじめに心にもった問いへの答えは、つぎのようなことになるかと思います。
すなわち …… アルベリオーネ神父は偉大な活動家、しかし、それ以上に、偉大な信仰と祈りの人。
1931年にブラジルでボアノ神父が受け取った最初の手紙に、アルベリオーネ神父はつぎのような言葉も書いています。
神の言葉をのべ伝えなさい。
師イエスがよい便りを告げた心を心として、
聖パウロがそれをのべ伝えた熱意をもって、
聖なる乙女マリアのやさしさと謙遜をもって。
1982年9月26日 放送