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新世紀ルーツへの巡礼
豊かな恵みの富
恐れるな
きわだった困難に直面して、彼(アルベリオーネ神父)は、自らの行動を再検討し、恵みの業に対して、自分の方から障害を置いていないかを反省してみたが、聖師(イエス・キリスト)が数年前にはじめたばかりの修道会を保証して、安心させようとお望みのように思われた。
その直後にみた夢で、ひとつの答えを得たような気がした。
事実、聖師はこう仰せられた。
《恐れるな、私がおまえたちとともにいる。
私はここから照らそうと望む。
罪を痛悔せよ》
「ここから」という一句は聖櫃(せいひつ)から出ていた。そして、力がこめられていた。
それはあたかも、師ご自身から、すべての光は受けるべきだということを悟らせるためかのようだった。
どういう光のうちに聖師の姿が包まれていたかを説明しながら、この夢について指導司祭に打ち明けた。
「安心しなさい。夢かどうかは別として、言われたことは聖なることです。それをあなたと全会員にとっての生涯のプログラムとも、ともしびともしなさい」との答えがあった。
このときから、常にますます聖体に集中し、すべてを聖櫃から汲み取った。
夢で聞いた表現を、彼状況全体を総合してどのように理解したかを述べれば、次のとおりである。
a )社会主義者も、ファシストも、この世も、恐慌にみまわれて債権者たちがおしかけてくることも、破船も、サタンも、情欲も、あらゆる面での不足もいかなるものもおまえたちに害を加えることはできない。
ただ、私がおまえたちとともにとどまれるように、万全を期しなさい。
罪を犯して私を追い出してはいけない。
《私はおまえたちとともにいる》
言いかえれば、私は、私が望んで立てたおまえたちの家庭とともにいる。
私が望み、養い、私も頭としてその一員であるおまえたちの家庭とともにいる。
ためらうな。たとえ困難が数多くとも……。
ただ、私がいつもおまえたちとともにあることができるようにせよ、罪を犯してはいけない。
b )《私はここから照らそうと望む》
つまり、私はおまえたちの光だ。
そして、私は照らすためにおまえたちを使おう。
私はこの使命を委ねるから、おまえたちはそれを果たして欲しい。
聖師の姿が包まれていた光、ここからと望むという言葉が発音された時の声にこもっていた力、および聖櫃の方に手を延べてじっと指し示された仕草は、聖櫃に宿り給う聖師からすべてを汲みとるようにとの招きであり、これがみ旨であり、当時危険に脅かされていたこの家庭から、偉大な光が放たれるのだと解釈した。
そこで彼、文法を犠牲にしても《 Ab hinc 》と書く方がよいと判断した。
めいめいは自ら光の伝達者、イエスの拡声器、福音史家と聖パウロ、聖ペトロ・・・・の秘書であると考えて自覚し、手に持つペンも、印刷機のインクのはけも、同じ使命を果たすのだと悟るように。
「罪の痛悔」とは、私たちの罪、欠点、不足を不断に認めることである。
私たちの召命の中に神のものと私たちのものとを識別し、すべての誉れを神に帰し、軽べつを自分たちに帰すること。
そこから、『契約または成功の秘訣』という信仰の祈りが生まれてきた。
アルベリオーネ神父の「霊的手記」から