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新世紀ルーツへの巡礼
豊かな恵みの富
ベネヴェッロで療養
シスター テレザのインタビューから
1923年3月23日に、聖パウロ女子修道会がスーザから移って何カ月か後のこと、アルベリオーネ神父様は重い病気をなさいました。
アルバ教区のある村に説教にいらっしゃいましたが、そのころまだ車が使われていなかったので、全部の道のりを歩いておいでになり、説教壇にのぼられると、それは向かい側にドアのある所で、そこから冷たい空気が入ってきたため、汗ばんでおられたアルベリオーネ神父様に悪かったようです。
私たち聖パウロ女子修道会の者は、何日かアルベリオーネ神父様をお見かけしませんでした。おまけに、パウロ会の神父様が、私に、うつる恐れがあるからアルベリオーネ神父様のものは、全部若い人たちのものとは別にするように、とおっしゃるではありませんか。
神父様たちは、3人のお医者さんと相談し、検査の結果、肺に大きな空洞があって、長くても1年半しかもたないだろうと、私たちに言われました。私たちが、どんなにぼう然自失したかは言うも容易でないほどでした。
でも主のご計画は私たちのとは違って、87才までもアルベリオーネ神父様を私たちの間にとどめてくださったのです。
ベネヴェッロの主任司祭、ボロヴィア神父様は、アルベリオーネ神父様がまだ神学校にいらしたころから、アルベリオーネ神父様の心もとない健康を見ていらしゃいました。彼は、神学校のダヌッソ神父様から頼まれて、すでにアルベリオーネ神父様によくしてくださっていました。
あの週の2日間、アルベリオーネ神父様が神学校で床についておられると聞くと、すぐベネヴェッロからアルバにいらして、よくなるまでご自分の住まいにお連れしたいとおっしゃいました。そして、ただ私たちのうちだれかが看護のために来てほしい、ご自分の家政婦はもう年とっていて病身なので、今、私のためにしている以上のことはできないから、ということでした。
パウロ会の神父様たちは、スーザからいらしたばかりのシスター テクラ・メルロと、私とのどちらにするか、くじでお決めになりました。どんなふうになさったのか知りませんが、くじは私にあたりました。
アルベリオーネ神父様は馬車で出発なさいました。1923年の6月のことです。そして8月いっぱいそこにいらっしゃいました。ミサもおたてになれないで、そこで聖体を拝領なさいました。
毎日、ご自分の持っていらした聖イグナチオの霊操を少しずつお読みになり「きょうはこれでじゅうぶん。あしたまた。」と言っていらっしゃいました。
声も出なくなり、熱が続いて、かっ血しているかどうかタンに注意しなければなりません。お気の毒な状態にありながら、治療の指示も与えられませんでした。
ときどき、すぐにも私たちを残して逝っておしまいになるのではないか……という考えで、泣かずにいられませんでした。
修道会は、まだはじまったばかりだというのに……
看護してさしあげながらも、外に出たときには泣いて悲しみを和らげました。私の泣きはらした目に、気づかれておっしゃいました。「どうして泣くのですか。私の場所に他の人が来て、私よりもよくやるだろうと知らないのですか」そして、かわりになるにちがいない人の名まえもつけ加えられました。
ほかのときには、こうもおっしゃいました。「この病気にかかったことは、なんていいことだろう。みんな遠ざかって、神様とだけ一緒にいることができる。共同体にもういることができなくなったら、コットレンゴに行って、そこで私の生涯を終えよう。」
アルベリオーネ神父様は、コットレンゴをとてもお好きでいらっしゃいました。まだそこには少しのシスターしかいませんでした。数年あとで私に話してくださいましたが、コットレンゴの創立の前に、アルベリオーネ神父様はそこにいらして、1カ月間の準備の黙想の指導をなさったそうです。たびたび私にしてくださったこの話は、私の感情をますます高ぶらせただけでした。
あるとき、パウロ会の神父様がいらして、アルベリオーネ神父様が同じ話を彼になさると、神父さまはアルベリオーネ神父様をとがめて、こうおっしゃいました。 「こんな話を2度となさってはいけません。私たち皆を、苦しませないためにも。」
みんな、とてもアルベリオーネ神父様を愛していた。
“Gli volevano tanto bene (彼を非常に愛するという意味)”という言葉どおり、はじめから私たちを残して逝ってしまわれるなどとは考えられないほど、アルベリオーネ神父様を深く愛していました。この小言の後、アルベリオーネ神父様は、2度とこの話をなさいませんでした。
このころアルバで、彼に反対する人たちが起こした騒ぎがあり、彼らは私たちの会に対して悪いことをもくろんでいました。
アルベリオーネ神父様は、「あなたたちに対して計画されているのではなく、あの人たちが捕らえたいと思っているのは私なのだ。」とおっしゃいました。
少しずつ少しずつ、快方に向かいました。私たちは体温表を作っていましたが、起きられるようになってから、平熱のときはお仕事をなさり、熱が高ければ少し、低い時は、それだけよけいに働かれました。
この時期に、聖パウロ会の会憲の草案を、私の貸した鉛筆でお書きになりました。すべての物に不自由していらっしゃいましたので。この短くなった鉛筆を、私はまだ持っています。
アルベリオーネ神父様のご病気は、9月には目に見えてよくなり、アルバにお帰りになりました。ところが、仕事も増えたので、前よりもっと悪い状態に逆もどりしました。
ジャッカルド神父様は、長くて1年とお医者さんたちが言ったので、アルベリオーネ神父様を隔離するため、アルバの郊外に1軒の家を準備していらっしゃいました。
1923年のクリスマスの晩、アルベリオーネ神父様は真夜中のミサをおたてになっていて気を失い、続けることがおできにならなくなり、また病床につかれました。私はさっそく参りましたが、ひどく動揺していました。
アルベリオーネ神父様はとても落ち着いてこうおっしゃいました。「ほら、主が私をお望みなら、準備ができている」と。
私たちは、困ったときいつもするようにキエザ神父様のところへ走っていきました。
神父様は、アルベリオーネ神父様のようすを見にいらしたあとで私たちに、「安心しなさい。まだ亡くなりはしない。まだたくさんの善をなさらなくてはならない」とおっしゃり、私たちはそれで慰められたのです。