home > 女子パウロ会とは > 新世紀ルーツへの巡礼 > 4- 師イエズス修道女会の創立  > シスター マリア・スコラスチカ

新世紀ルーツへの巡礼

目次

もうひとつのうまぶね 「師イエズス修道女会」

シスター マリア・スコラスチカ(オルソラ・マリア・リバータ)

オルソラ・マリア(後の シスター マリア・スコラスチカ)は、1897年7月12日、グァレーネで生まれました。両親は、彼女の誕生を、非常に喜びました。

グァレーネは、クネオ県、アルバ教区に属しています。海抜360メートルの所にあり、2000人ほどの人々が、そこで暮らしていました。この土地の人々は、オルソラの誕生を、両親とともに喜びました。

聖ペトロ・バルトロメオ教会

誕生の翌日、当時のキリスト者の家庭がするように、聖ペトロ・バルトロメオ教会で洗礼を受け、オルソラ・マリアと命名されました。

1903年、彼女が6歳の時、母ルチアは、24歳の若さで亡くなりました。

その年、オルソラ・マリアは、小学校へ入学しました。とても勉強好きで、成績も優秀でした。

当時、優等生に与えられる 三色のリボンのついた彫刻入りのメダイを受けたことからもうかがい知れます。同級生のフレジアは、これは、他の人たちにとっても刺激となったと言っています。

学校を終えると、宗教の勉強に励み、教会活動にも参加していました。


オルソラ・マリアの下に2人の子どもを抱えていた父アントニオは、1904年に再婚することになりました。

彼女の第2の母ジェパは、子どもたちを大事にしてくれましたが、亡くなった母親とは性格的にもだいぶ違っていました。

オルソラ・マリアは、それにとまどいながらもこう回想しています。
 「新しい母から教会、聖体への愛、良い模範を教えてもらいました。私たちはできるだけ毎日ごミサに行き、日曜日には家族そろってごミサと夕方の祈りの儀式に参加しました。」

1904年6月、オルソラ・マリアが7歳の時に、初聖体を受けました。
 ご聖体は、彼女の青春時代を強く引きつけ、生きる力の源、召命と使命を選ぶ光と導きとなりました。

オルソラは、母に教えられたように、聖母像に向かってよく祈っていました。彼女の母の思い出とその模範は、将来生活を共にするシスターたちに対して、母としての任務を果たす時に 役立つものとなりました。

彼女は、家事、父親と一緒にする畑仕事など、与えられたすべての事に細心の注意を払い、これらを通して少しずつ実践的な教養を身につけていったのでした。


1912年、家庭の経済面を助けるため、彼女は、2年間アルバの紡績工場で働きました。そこで彼女は、仕事仲間への良い模範と、本来の明朗さで仲間の支えとなりました。

オルソラ・マリアは、当時の他の娘たちと同じように、土曜日には家に戻り、月曜日の朝から再び仕事につくという生活でした。その道中は、同じところから来ている仲間たちと一緒に歩きながら祈り、歌い、まるで合唱隊のようでした。

オルソラ・マリアは、仕事仲間の中にブリオッカから来た年長の若い女性、ウフロジーナ・ビネッロに出会います。彼女は、オルソラのそばで霊的な歩みを助けてくれました。それは、彼女が修道生活への召命を心に抱いていたからで、その熱い炎がオルソラ・マリアに伝わっていったのです。

しばらく後で、その若い女性エウフロジーナ・ビネッロは、聖バウロ女子修道会へ入会し、シスター マルガリータの修道名を受けました。


その1915年、18歳になって間もないオルソラ・マリアは、新しい家を建てるため、煉瓦(れんが)運びをする仕事で父親を手伝いました。この経験は、彼女が修道会に入会した時に、役にたつことになるのです。

このころ、アルベリオーネ神父は、いろいろの教会を手伝い、説教をしていました。オルソラ・マリアのいる教会にも、彼は手伝いに行きました。オルソラは、彼の説教や祈り方も気に入りましたが、彼の名前も、どんな司祭なのかも知りませんでした。

読書好きなオルソラは、土曜日には度々買物のため、アルバの書店に立ち寄りました。おそらく、最初の聖パウロの書院だったでしょう。

そこで、アルベリオーネ神父と出会い、彼はオルソラに「あなたも、修道会に来ませんか」と招きました。オルソラは、その神父があの時、自分の教会で出会った司祭であるとわかりました。

彼女は、自分も来たいと思いました。そして、「私は、神さまだけを望みます」と応えたのでした。

しかし、すぐには行けませんでした。家でも、戦いがありました。

ある日、父アントニオは、オルソラに、優秀な青年から結婚の申し込みがあったことを伝えました。

彼女はすぐに返事をせず、ミサに行ってから急いで家に帰り、自分の部屋にある“大切にしている聖心の御像”の前で祈りました。「主よ、あなただけで十分です!」と。

こうして彼女は自分の生涯について決め、それを父親に告げ、父親は彼女の選びを尊重したのでした。

オルソナ

そんな時、アルベリオーネ神父は、「いつ修道会へ入会するつもりですか」と、彼女にたずねました。
 オルソラは、「私は、このまま留まりたいのですが、家庭の問題があるので」と答えました。
 アルベリオーネ神父は「早くするんですよ」と彼女に言いました。
 オルソラは、言い続けました「聖パウロのコロンチーナが載っている祈りの本をください。私の大好きな祈りです。毎日唱えたいので」と。

しばらくして、オルソラは、父に同伴されて聖パウロ会へ入会しました。彼女を連れてきてくれた父と一緒に、アルベリオーネ神父と出会いました。1922年7月29日、25歳の時でした。


1922年といえば、アルベリオーネ神父を囲んで、みなひとつの家族として仕事をしていました。その時すでに、ある意味では、師イエズス修道女会の仕事もはじまっていたといえます。それは、とても家庭的な生き方でした。

オルソラが、入会の際にもってきた手荷物は、質素な小さな包みに最小限度必要な物が入っていました。もし、彼女が帰りたいなら走って戻れるように、家族の者からあまりたくさんの物を持たないようにと言われていたのです。
アルベリオーネ神父は、お父さんとしばらく話した後、マエストラ・テクラを呼びました。そして、彼女にオルソラを託し、「よろしく、特別の意向があるので導いてください」と言われました。
 オルソラは、マエストラ・テクラが、カノニコ・キエザ神父の指導のもとにカテキスタをしていたときに、出会ったことがありました。

その日の典礼は、聖師から愛された聖マルタの記念日でした。

オルソラは、この日を思い出しながら、こうつづっています。

アルベリオーネ神父様は、私たちを聖パウロ会の家で待っておられました。
父が修道院から帰る時、私は父を抱擁しつつ、父が安心して家路につくよう、私が喜んでいることをはっきりと告げました。
私は今、主の家にいるのですし、父も私の選びを、嘆くことがないためでした。

「追憶」から

単純な信仰の持ち主であるオルソラの 父リバータ氏は、自分の愛する娘を生まれつつあるパウロ家族修道会の創立者 アルベリオーネ神父に、託しました。
 彼は、不安と愛情の中で、我が子をささげたのです。

すでに、彼女に対する恵みの特別な計画を感じていたアルベリオーネ神父は、新しく入会した娘を、優しく迎え入れました。

翌年、アルベリオーネ神父は、「聖書の中の女性」という本を彼女に渡し、それを注意深く読んで、感想を述べるようにと命じました。
 このことは、やがて師イエズス修道女たちに委ねられる使徒的活動と、その精神の準備となりました。

こうして、オルソラは、神の特別のご計画の道を歩み出しました。
 この道は、特別に困難な道でもあったのです。

彼女は、次のようように語っています。

この任務を果たすため、私は特別な困難と取り組まなければなりませんでした。
 しかし、主の恵みで乗り越えました。
 主は、アルベリオーネ神父が、師イエスに従う女性たちの福音的使命を示そうとした意図を、私に理解させてくださったのです。

師イエズス修道女会が創立されてから、教皇の正式認可を受けるまでの歩みは、実に長い道のりでした。

オルソラは、最初にアルベリオーネ神父が2人を選び分けられた時に言われた、「かくれた犠牲」、「沈黙」で、この困難な道を生きたのでした。

オルソラ・マリア・リバータの、その後の生涯は、またルーツの旅の中で、師イエズス修道女会の今後の歩みと共にみなさまにご紹介できるでしょう。
 楽しみにお待ちください。


▲ページのトップへ