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新世紀ルーツへの巡礼

目次

聖パウロの大聖堂

ピエトロ・ボッラーノ神父の証言(2)

聖体をさずけるパウロ
聖体をさずけるパウロ

ロアッタ神父:

ボッラーノ神父:

ロアッタ神父:
 パウロ的霊性についてお話しいただきたいと思います。

ボッラーノ神父:
 パウロ的霊性について話すためには、すぐに三つの信心つまり師イエス、使徒の女王、聖パウロに対する信心について話したくなりますが、これらの信心は、一つの中心的理念を基盤として、そこから発展したものなのです。

 中心的理念とは、聖体です。聖パウロ会は、聖体から生まれ、聖体に養われた霊的な現実です。

ロアッタ神父:
 今世紀は歴史的変貌をきたした世紀です。ご聖体はパウロ家の基盤である…。

ボッラーノ神父:
 アルベリオーネ神父は、そのうえ、修道院の建築にまで、このアイディアを生かそうとなさいました。

 アルベリオーネ神父は、こう言っておられました。
「私たちの間に、聖体的アイディアを具体的に定着させるため、何でも太陽の光線のようにしましょう。やがて建築される修道院の元であり、修道院の中心には聖堂があり、聖堂がすべての中心をなしています。さらに聖堂の中心にはクーポラ(丸天井)があって、その下に聖体のイエスをささげる大祭壇があります。そこから四方に、真の光が射すことになります。その光は、種々の使徒職、より迅速にしてより効果的なものすべて」と。

ロアッタ神父:
  アルバやローマの建物の中に、そのようなアイディアの具現が見られますね。

ボッラーノ神父:
 あるとき、パウロ会の紋章を作ろうという話が出ました。しかしアルベリオーネ師は、それをお望みではありませんでした。とにかく私たち若い者は望んでいたのでした。「まあ、いいでしょう。しかし、それにはまん中にホスティア(聖体)を置きなさい。そして聖パウロのシンボルとして剣を、使徒職のシンボルとして本とペンを置きなさい。」と言われました。

紋章
紋章

ロアッタ神父:
 それでは、パウロ会の紋章はボラーノ神父様がお作りになったわけですか?

ボッラーノ神父:
 私はただ下書きをしただけです。ベリーノ神父様に、その後をきれいに仕上げていただきました。美しいデザインは、彼のものです。

ロアッタ神父:
 これが、わが家のちょっとした芸術作品第1号だったのですね。

ボッラーノ神父:
 しかし、これは2、3回使われただけで、そのうちにある人がどうもさえないと言ったものですから、もう使われなくなりました。それからかなりたったころ、ジャッカルド神父が本の上に言葉を書き加えてくださって、再び使用するようになりました。

ロアッタ神父:
 すべてが、聖体中心であったわけですね。

ボッラーノ神父:
 はい。それはいうまでもなく建築や紋章のデザインの中でよりも、生活において実現されるべきものです。ですから、毎日の聖体訪問というものはまさに、聖体崇敬の生きた信心業であるわけです。

ロアッタ神父:
 アルベリオーネ師が常に強調しておられた聖体訪問は、彼が抱いておられた中心的理念によく答えるものですか?

ボッラーノ神父:
 そうだと思います。パウロ会は、一日のうち何時間をも要する、大変重い使徒職に献身しています。それがただ数日間というのではなく、一生涯かけてこの重い責任を負っているのですから、それだけ、強じんな霊的な力を必要とするわけです。

 この聖体訪問についてある人が異議を申し立てたとき、アルベリオーネ神父はおっしゃいました。「聖体訪問は、私たちの存在理由です。私たちが果たしているあらゆる労働は、他でもなく、イエス・キリストのメッセージを運ぶ手段に過ぎません。もし私たちが聖体のイエスと親密に交わらないなら、私たちが運ぶメッセージはいったいどんなメッセージなのでしょうか? 」

ロアッタ神父:
 この点に関してアルベリオーネ神父は、非常に徹底していましたね。

ボッラーノ神父:
 まったくです。彼は忠告しておられます。「聖体訪問をないがしろにしはじめる日は、破滅のはじめです。修道会は聖体から生まれ、聖体で生きています。聖体なしでは、修道会は存続し得ません。」

ロアッタ神父:
 ボラーノ神父様は、聖体訪問の価値をどのようにお信じになっていますか?

ボッラーノ神父:
 深く信じています。さもなければ、私たちは他の一般の印刷出版業者と何ら変わりません。もはや私たちは使徒ではなく、労働者にしか過ぎません。

ロアッタ神父:
 今日、いささかひずんでいるのではないでしょうか?

ボッラーノ神父:
 はい、かなり多くの人が労働の方を大切にして、キリストを訪問するために聖堂に行くことをそれほど大切にはしていません。もし私たちが全員きちんときめられたように聖体訪問をするならば、きっと会の初期に経験したような、使徒職上の活気と喜びがあるでしょう。私はこのように確信しています。

ロアッタ神父:
 では次に、聖パウロへの信心について。

ボッラーノ神父:
 ある人は、これほど現代的な使徒職に対して、聖パウロはあまりにも古い聖人だと考え、なぜ、例えばサーレスの聖フランシスコのように、近代の聖人の中から選ばないかと言っていました。けれどもアルベリオーネ神父は、「源泉にしっかりとふみとどまることに、非常な注意を傾けていなければならない」と言って、私たちを聖パウロに結んでくださったのです。

ロアッタ神父:
 では、道・真理・いのちなる師イエスへの信心について、どうお考えになりますか?

ボッラーノ神父:
 受肉の原理の、真の適応だと思います。
つまり、人間全体(知性、意志、心、からだ)として、全存在をあげてキリストのすべてを生きることです。実際、人間のあらゆる機能は、キリストに基づいて養成されなければなりません。こうしてキリストは人間のうちに生きるものとなるのです。

 方法が、いささか柔軟性のない画一的なものになってしまいました。とはいえ、修道会の生活や、各個人の生活を見ながらも、根本概念を把握するためには、一つの方式が不可欠です。

使徒の女王
使徒の女王

ボッラーノ神父:
 はじめのころは、無原罪の聖母を祝っていました。
それからたぶん一年後には、被昇天の聖母を祝うようになり、まもなく聖霊降臨を祝うようになりました。聖霊降臨の秘義は、使徒の女王に対する信心に、明らかに結びつくものです。

 アルベリオーネ神父は、ドミニコ会修道女に、聖霊を受ける使徒たちと一緒におられるマリア様を表すような絵を描いてくれるように、依頼なさったことがあります。このようにして、使徒の女王マリアの信心は、成長していったのです。


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