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新世紀ルーツへの巡礼

目次

さらなる発展へ

ロアッタ神父の証言

“Mi Protenro in Avanti”の最初のページ”
“Mi Protenro in Avanti”の最初のページ”

聞き手:女子パウロ会 シスター

語り手:ロアッタ神父     

女子パウロ会 シスター:
 イタリアに帰られて……?

ロアッタ神父:
 修道士のマエストロ(師、養成担当者のこと)になるように任命された。アルバには当時相当数の修道士の立誓者がいた。70人ぐらいだった。そこで、中断していた神学の勉強を続け、博士論文を書いた。論文提示と論ぱくをしにローマに行った。 その翌年、アルベリオーネ神父に一つの考えがわいてきた。「こいつは神学博士になったのだから、師イエスの研究をしたらよい仕事ができるだろう」と。
1949年9月、アルバにいる私に手紙が来た。「いましていることを全部手放して、トリノに行きなさい。トリノの修道院には資料の豊富な図書室もあるし、他の便利もあるから、そこで師イエスについての本を書きなさい。」彼は、師イエスについて本を書け、といった。
師イエスの本を書けといわれたら、あなただったらどうする? 私はそのことばを文字どおりにとった。
私たちはいつでも「師イエス」と呼びかけて祈っている。だったら、これはどういうことか、師とは何か……。そこで私は教父の著作から聖書から、手あたり次第にこれに触れていそうな本を読みまくった。……二年間。昼も夜も、一日十五、六時間読んだ、教父の著作を洗って、師イエスについてのたくさんのことを見つけた。じつに興味深いものがたくさんあった。
ある日、「ローマに来て、その仕事を続けなさい」といわれた。私はローマに行って、この収集の作業を続けた。
1953年、ある人々はいつも先を見ているから、「1954年は創立40年なのに何もしないのだろうか」という声が出た。ペリーノ神父、ガンビ神父といっしょに「何かしよう、考えてみよう」ということになった。こうして準備したのが《Mi protendo in avanti 》(『我、前進す』)という本だ。あの本はその機会に出たものだ。この本の中心となった『師イエス』という論文を私が書いた。師イエスについて私がしてきた研究が、ああいう形になった。それがこの本の中心となった。

女子パウロ会 シスター:
 神父様にぜひ伺っておきたいことがあるのです。
《Mi protendo in avanti 》の出版にかかわられ、最後にあの有名な乾杯もなさったわけですが……。

ロアッタ神父:
 そう、そう。おもしろいことだったのだ、《Mi protendo in avanti 》の出版は大仕事だった。そこで、本の末尾に、使徒の女王教会堂のフレスコ画の『カナの婚姻』の部分《ぶどう酒を飲む人》を置いて、彼らの大仕事完了の乾杯とした、というエピソードがある)。

女子パウロ会 シスター:
 《Mi protendo in avanti 》のなかにアルベリオーネ神父さまが書かれた部分があれば、そのいきさつについてもお聞かせください。

ロアッタ神父:
 私が知っていることはこれだ。
《Mi protendo in avanti 》のいろいろな記事が準備段階にあったとき、アルベリオーネ神父はそれらに目をとおし、意見をいったりしていた。私は、自分の担当した「道・真理・生命である師イエス」を準備していた。そんなある日、アルベリオーネ神父からお呼びの声がかかった。私が全体の責任をもっていた、ということもあったからだろう。
「ちょっといっしょに来なさい」といって、廊下をゆっくりと歩き始めた。深い思いに沈んでいるという感じだった。私に「一ついいたいことがあるのだが……」といわれた。
「私の死後、私について話してはいけない。聖パウロのことだけを話しなさい。彼が創立者だからだ。師、保護者、パウロ家をつくっていく建築者だからだ。」
私はことばもなく聞いていた。彼について話してはいけない。話さないわけにいかないではないか。聖パウロが創立者だ……と。
彼はそれ以上何もいわない。私も仕方なく、「はい、かしこまりました」と答えた。そして、そこを立ち去った。奇妙な話だ、と感じながら、そのままにしておいた。
ところが1カ月ぐらいたって、また呼ばれた。呼ばれた私を出迎えた彼の手には何枚かの紙があった。原稿だった。
「読んでみなさい。役に立つかどうか。」
それはほかでもなく、《Io sono con voi(わたしはあなたと共にいる) 》つまり《Abundantes divitiae 》(『豊かな恵みの富』)の原稿だった。手渡されて、それをもって戻り、読み始めた。それから、仲間の編集員を呼んだ。ペリーノ神父、ガンビ神父……など。
「見てごらん。ニュース、ニュース!」
とくに、あの世紀を分かつ夜の話。私たちは知らないことだった。彼は一度も話したことがなかった。それが書かれて原稿になって現れた。
ところが編集の仕事はかなり進んでいて、それを全部使うことができなかった。しかも、私たちの頭には、《Mi protendo in avanti 》のなかにその「パウロ家のカリスマの提示」を入れるという考えすら浮かばなかった。おかしいことだが……。どうしたことかわからないが、事の重大さがわからなかった。将来どんな影響を与えるものか。アルベリオーネ神父が覚えていて書いたことの重要性はたいへんなものなのに。
私たちは何回も何回も読みかえしたが、あまり使わずにそのままにしていた。そして、私たちが書いていた。
彼は第三人称を使って書いている。しかも、まるで、私たちが「書いてください」と頼んだようになっている。彼は、「もし彼があなた方に譲歩してその願いに応じるために、自分がいまだに記憶にとどめて……いることがらを物語ろうとするなら……」というふうに書いている。
私たちは編集した本を印刷し、印刷が終わったところで、使った写真を整理し、原稿もしかるべき場所に置いて整理した。
そこにマッジョリーノ・ポヴェロ神父がやってきた。ブラジルにも来た人で、この本の仕事にも大いに手をかしてくれた人だが私に「アルベリオーネ神父の原稿はもっているか」と尋ねた。「あるけれど……」「私にくれないか。私がもっていて、ちゃんと保存しておくから。」私は彼にそれを渡した。彼はきちんとした人だということをよく知っていたからだ。私も紛失するようなことはしないつもりだったが、ほんとうのことを白状すると、私はそんなに重大なものだと考えていなかった。
そして、それっきり考えなかった。
ブラジルに行って、14年がたって、ここに戻ってきた。特別総会でいっしょうけんめいに働いているところへ、1冊の小さな本が現れた。《Io sono con voi 》だった。だれかがこの原稿を見つけて本にした。1969年から1970年に読まれ始め、そのときからこれがアルベリオーネ神父のメッセージとなった。あなた方の知っているとおり、たいへんな重要性をもつものだ。簡潔だが、深く、光に満ちたものだ。
私が手にしたのは、こういういきさつからで、のちにひとりの人に渡した。その後バルベーロ神父の注が加えられた。2つの原稿があった。私に手渡されたのは、すでに修正されたのちの清書コピーで、もう1つはスペチャーレ神父がアルベリオーネ神父関係のものといっしょに保管していたもので、修正がたくさんしたままのものだった。
これが、私の知っているこの原稿の歴史だ。

女子パウロ会 シスター:
 《Mi protendo in avanti 》のなかに、その一部は入っているのですか。それとも全文が……。

ロアッタ神父:
 いや、入っていない。

女子パウロ会 シスター:
 一部分だけは入っているのですか。

ロアッタ神父:
 そのままのものとしてではない。
ペリーノ神父がパウロ家族の歴史を書いたり、ガンビ神父がアルベリオーネ神父について書いたりしていた。彼らはその原稿を読んだわけだから、一部を引用したりしている。

この後のインタビューは後ほどお伝えしたいと思います。


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