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信仰の挑戦 … 女子パウロ会 各国創設記

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第5回 アルゼンチンにおける創設  ─ 聖パウロと瀕死の鶏 ─


アルゼンチン
アルゼンチン ブエノスアイレスの2つ目の家 1938

 

1931年12月13日、マエストラ・ステファニーナ・チラリオ(1912-2006)は、ブラジル行きのマエストラ・カテリーナ・カルボーネ、マエストラ・エステル・インノチェンティ(1904-2003)、師イエズス修道女会のシスタートマジーナ、アルゼンチン行きの聖パウロ修道会のジュゼッペ・フォッサーティ神父と一緒に、汽船「コンテ・ベルデ」に乗ってジェノバを出航しました。

12月27日、マエストラ・ステファニーナは、マエストラ・アデオダータ・バルディが待っておられるサントスに到着しました。その後も4日間の航海を続け、ブエノスアイレスに到着したのは12月31日夜中11時でした。

船のデッキからセバスティアーノ・トロッソ神父が見えました。トロッソ神父は、ジュゼッペ神父だけを待っていたのに、知らされていない4人が到着したのを見て、「ああ、どうしよう」と困ったように頭を抱えると、大急ぎで修道院に電話をかけ、食品倉庫の余計なものを片付けて、シスターたちのために3台のベッドと3枚のマットを手配するよう頼みました。税関の手続きも無事に済み、トロッソ神父は、当時聖パウロ修道会の家であったフロリダにわたしたちを連れて行きました。修道院に到着したのは1932年1月1日午前2時、新しい年になっていました。女子パウロ会の2人のシスターたちは質素な2台のベッドと2枚のマットにしばらくの間休んだ後、ミサのために出かけました。それからコーヒーを飲み、住まいを探しに出かけました。

アルゼンチンの困難は並大抵なことではありませんでした。知り合いはなく、保証してくれる人もなく、町も知らず、スペイン語も知らなかったのです。3日間はむなしく町を歩き回りました。

そのうち、寝具を担いで主任司祭のところに行くことになりました。3日後、聖パウロ修道会に近いところに、やっと住居を見つけることができました。それは車庫でした。車庫を整理し落ち着くことができました。わずかなものしかありませんでしたが、神に見守られ、気詰まりもしないわが家のように感じられました。

旅費の残りは300リラだけとなりました。それは、3か月間の家賃として使い果たしてしまいました。これ以上貧しくなれないほどの貧しさでした。無一文になり、家代わりの車庫はまったく何もない状態でした。6本のスプーン、6本のフォーク、そして1本のナイフの他には、椅子もテーブルも、皿、鍋、調度品もまったく何一つありませんでした。

毎日「神の摂理」に信頼しながら出かけて行きました。けれども話すことができなければ、どのように説明できるでしょうか。知っている人がいなければ、だれが信じてお金を出してくれるでしょうか。一日中苦労し、屈辱と暑さの中で過ごし、疲労困憊して家に帰りました。わずかな寄付でパンと牛乳を買い、一日の飢えをしのいでいました。

プロテスタント教会の人々は、ドアさえ開けてくれませんでした。店に行ってはパンや野菜、また砂糖や塩の施しを求めていました。スープは日曜日だけいただいていました。平日は聖パウロ修道会の掃除をさせてもらい、その報酬として食事がついていました。

こうして1月16日になりました。1月25日の「聖パウロの回心」の祭日に向けて、姉妹たちは熱心に9日間の祈りをささげました。けれども状況がよくなったわけではありません。1月25日は、さすがにアルバで祝われるすばらしい祝日を思い、悲しさとなつかしさがこみ上げてきました。

ところがこの日、思いがけないできごとがありました。ミサから戻る途中、地に何かばたばたと動くものが目にとまりました。それは車に引かれた鶏でした。一瞬迷ったのですが、人通りはなく、だれのものでもないことがわかると、ありがたくいただくことにしました。家に持ち帰り料理して、喜んでいただきました。聖パウロの父としての配慮を感じた祝日でした。



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