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信仰の挑戦 … 女子パウロ会 各国創設記
第21回 コンゴの創設 -1)
無理解と混乱の中での始まり
1957年11月、レオポルドビル(現キンシャサ)に修道会創設を決めた聖パウロ会の最初の宣教者たちがベルギー領コンゴに向けて出発したことは、パウロの娘にもアフリカに行く希望を抱かせました。この希望は7か月後に具体化しました。この新しい「冒険」のために2人のシスターが選ばれました。ひとりはカナダからローマに呼び寄せられたシスターバジリア・ビアンコ、もうひとりはシスタージュゼッパ・パナレッロでした。
1958年6月27日、感激し、関心を持つシスターたちの群れに囲まれ、2人の先駆者はチャンピーノ飛行場に向かいました。ここでシスターテクラ・メルロの最後のあいさつと助言を受けました。「セベナ機」がエンジンの大音響を響かせ空に舞い上がったのは夜中でした。最初の寄港地はナイジェリアのカノでした。その後、シスター・バジリアとシスタージュゼッパは、聖パウロ会士とマリアの汚れなきみ心の修道会(シュツ会とも言われた)のファン・ハム神父様に迎えられました。この神父様は、シスターたちがアフリカに行けるよう大変尽力してくださった方でした。シスターたちを休ませた後、聖パウロ会士たちは、ヨーロッパ地区に彼女たちのために借りてくれている家具つきの家に、連れて行ってくださいました。
7月2日、イタリアからもう2人のシスターが到着しました。シスターたちは、黒いきれいな制服から少々残念な思いで白い服に着替えたのです。その後、小さな共同体はよく話し合い、家庭訪問による普及の仕事を始めようと決めました。しかしシュツ会の神父様方は、白人のシスターたちが出かけていって、「黒い人々の村の家々に入る」ことを快く思いませんでした。神父様方ははっきりと命令し、厳しく言いました。「わたしたちの『コンゴの十字架』書院とロバニウム大学の図書館で働いてください」。
聖パウロ会士たちは、今はシュツ会士の要請に従うようにと示唆してくださいました。その間、シスターたちはフランス語とリンガラ語を勉強しました。このリンガラ語は人々が話す言葉でした。そのうち、ローマから他のシスターたちが到着し共同体は大きくなりました。彼女たちには、今こそ家庭訪問をする時がやって来たと思われたのでした。シュツ会士の反対意見にもかかわらず、教皇代理の許可を得て「プロパガンダ」を開始しました。コンゴの人々は、自分たちの家を訪問して歩いている白いシスターを見ることをうれしく思いました。彼らは喜んで敬意を払いながら、シスターたちが差し出す聖人たちの絵、ロザリオ、パンフレットを喜んで受け取っていました。子どもたちはうれしくて、宣教女たちの後を踊りながらついて行っていました。最初のプロパガンダで普及した絵、ロザリオ、メダイ、教理の本、マリアに関する本は、金に値するほど貴重なものでした。後になって、カナダとフランスのシスターの寛大な計らいのおかげで、他の本なども普及することができました。
シスターたちが慎重に働いていたにもかかわらず、シュツ会士はシスターたちの「不従順」を知るところとなりました。彼女たちは単純に、家庭訪問による普及の仕事は、わたしたちのパウロ的使徒職の本質的な部分をなし、この働きによって多くの善を行うことができること、また人々はよく受け入れてくださることを説明しました。シスターたちの熱意と宣教の精神を前にして、神父様方はついにプロパガンダの許可をくださいました。それは「コンゴの十字架」書院の仕事をしながらというものでした。
1959年1月、コンゴの独立のための最初の暴動が始まりました。暴徒たちが襲ってきて、町の中心にあるヨーロッパの家々を焼き払いました。この中には「コンゴの十字架」書院もありました。みんなの苦しみは大きく、特にシュツ会の神父様方の苦しみは大きいものでしたが、書院を再建する勇気はありませんでした。こうして、パウロの娘は家庭への普及の仕事にも、書院のためにも、自由な土地を持つことになりました。
使徒職はすでに軌道に乗り、シスターたちはベルギー領コンゴから出て、フランス領コンゴ、ガボン、カメルーン、中央アフリカ共和国まで進出していきました。彼女たちは福音の祝日、大人の要理のための四旬節、またロバニウム大学での聖書の展示会を企画しました。