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信仰の挑戦 … 女子パウロ会 各国創設記
第29回(終) モザンビークの創設 小さい人々に分かち合われたパン
ベイラの司教モンシニョール・ソアレス・デ・レセンデは、ポルトガルでパウロの娘を知りました。彼女たちの使徒職の種々の働き、活動によって果たしていた善の実りを認めておられました。とりわけ、よい出版の家庭訪問による普及に心を打たれ、各家庭で個人的な接触をもって行う福音宣教は非常に効果的な手段だと見ていました。宣教者たちのかたわらでシスターたちの働きがどんなに貴重であるかを確信された司教は、シスターたちをモザンビークに招かれました。シスターたちを励まし受け入れるために、小さいけれど十分に働ける書院を、シスターたちのために準備しました。
シスターたちは、総長シスターイグナチアの要請に従いました。人材不足こそ、ベイラの司教の招きへの唯一の困難でした。
1966年の終わりごろ、モンシニョール・ソアレスは喉の癌と診断され、余命いくばくもないことが判明しました。この知らせを受けたシスターイグナチアは、ベイラへの招きを受け入れたことを司教に知らせるように依頼しました。司教はこれを大変喜び、残り少ない力を振り絞って、シスターたちが司教区によく溶け込むようにしてくださいました。司教はシスターたちと知り合う喜びを得られませんでした。 しかし司教の犠牲のおかげで、またよく準備してくださったおかげで、シスターたちは最大の歓迎を受け、使徒職をすぐに始めることができました。
ベイラはモザンビークの首都ではありませんでしたが、よい港があり、カトリック信者も多く、重要な都市でした。
1967年2月18日、最初の3人のシスターたちがベイラに到着しました。ポルトガルのシスターたちから本を譲り受け、現地の言葉の本が到着するまで、ポルトガル語の本を持って家庭に印刷物を普及しました。アフリカのカトリック信者たちは、とりわけ、福音書、教理書、祈りの本を望んでいました。
はじめの数か月、書院は半日だけ開店していましたが、やがて一日中開店できるようになり、司教の書院として目立たせることができるようになりました。さらに他のシスターたちが到着し、1967年6月30日、借りたアパートに移ることができました。その中で一番きれいな部屋を聖堂にあてました。
1968年春、ベイラのシスターたちが次のような手紙を書いています。
どこでも避けられない困難はつきものですが、わたしたちの使徒職の新しい形態のために好感を持たれ、学校での普及は校長と教師たちの協力によってよい結果が得られました。
また、主イエスは、新しい書院を開く恵みをくださいました。最初の書院は中心から外れていましたが、新しいの書院は現代的で町の中心に位置しています。その書院は、1968年2月11日、ルルドの祝日に落成しました。町の主だった人々、教区で働いている多くの宣教者、修道者の列席のもと、モンシニョール・フェレイラ・カブラルによって落成式が行われました。
モンシニョール・フェレイラ、講話の中でこう語られました。
「パウロの娘たちが、モザンビークで最初に居を構えた町が、ここベイラであることを光栄に思います。この働きが発展し、力強く、生き生きと続けられますように。ベイラだけでなく、この県のすべての町や村で働き続けられることを願っています。小さい人々に分かち合われたパンを差し出すことによって、真理と正義を探し求める人々が、永遠の福音を受けることができますように……」。