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パウロ年 一口メモ
パウロの宣教旅行の手段は?
ある信者さんから、たずねられました。
「パウロは馬で旅をしたのでしょうか、それとも、ロバに乗って旅をしたのでしょうか? 聖書を一生懸命読んだのですが、どこにも書いてないようなのですが」と。
たしかに、どこにも書いてありません。
馬かロバかという誤解の元は、どうも、聖パウロの回心を描いた絵にあるようです。
ダマスコに向かっている時、パウロは復活の主と出会いましたが、そのシーンを描いた絵は実に様々あり、その中には落馬したパウロを描いているものが多いのです。
中世に描かれた絵は、自分の生きた時代を反映して描いた絵が多く残されています。現在ほど、時代考証や、考古学的発見がまだ発表されていない時代に描かれた絵には、こういうものが多いのです。また、聖書を読んでイマジネーションをかき立てられた画家が、キリストの光に照らされたパウロが、落馬する姿に描いたほうが、よりドラマティックになると考えたのかもしれません。
では、実際、パウロは、どういう手段を使って旅をしたのでしょうか。
パウロが使徒としての自分が味わった苦労を列挙している「コリントの信徒への手紙 二」の11章25節以下に、このように書いています。
「難船したことが3度、一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難……町での難、荒れ野での難……」。
当時は、海や川は、船旅が普通でしたが、航海技術がさほど進んでいませんでした。そのため、陸地沿いの海上を旅し、夜は陸地で野宿することが多かったようです。
その上、船に乗るといっても、荷物が優先されていましたから、乗客といっても、ローマの総督や高級役人でないかぎり、荷物扱いと同じだったと考えるほうがよいようです。ですから、パウロも自分の食糧は自分が持ち、積み荷の間に座り、夜は他の旅人と一緒に、陸地で野宿をしたと考えられます。
では、陸路は、というと、パウロの旅した所を辿った人々の話を聞くと、どうも徒歩がほとんどだったようです。ひょっとして、ロバに乗ったり、馬車に乗せてもらうことがあったかもしれませんが、パウロたちの辿った道のりは、ほとんど徒歩での旅だったと考えられます。
しかし、ローマ帝国内には、現在のアッピア街道に残っているような石畳の道が張り巡らされていたので、大きな町を結ぶ街道では、このようなローマ人の造った道を歩いたことでしょう。