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マザー・テレサを最初に日本に知らせたシスター白井

マザー・テレサとシスター白井
マザー・テレサとシスター白井

 マザー・テレサが日本に初めて来日されたのは、1981年のことでした。その時、マザー・テレサは、もう一人のシスターと一緒に、東京港区にある聖パウロ女子修道会(女子パウロ会)に宿泊されました。このきっかけをつくったのが、女子パウロ会会員のシスター白井詔子でした。

 1976年秋、シスター白井は近代映画協会のスタッフ4人と共に、コルカタ(カルカッタ)で、マザー・テレサとその共同体、その働きを撮影し、映画『マザー・テレサとその世界』を制作したのでした。

 その撮影期間、マザー・テレサとシスター白井には、何かお互いに惹かれるものがあったようでした。このようなことを言うと、ある方はマザー・テレサに対して、何という失礼なことを言う、とお考えになるかもしれませんが、それ以降の2人の関係を見ると、そうとしか言いようがありません。

 「神の愛の宣教者会」はまだ、日本で創立されていませんでした。そのために、マザー・テレサから、シスター白井に宿泊依頼のお電話をいただいたのです。

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 1981年、マザー・テレサ初来日の折のエピソードをいくつかお話しいたしましょう。

マザーは、写真でよく見る、グレーのカーディガンを、あの白いサリーの上から着ておられました。何人かの方と出会った翌日、前日会った方が同じようなグレーのカーディガンを持って来られました。

 マザーは感謝して受け取ってから、「私には、まだこれで十分ですから、あなたがこれを着たらいいでしょう」と、一緒に来られていたいたインド人のシスターに渡されました。

 マザーのカーディガンは、両ひじにつぎのあたった、それは古びたものだったのですが・・・。カーディガンだけでなく、手提げ袋、サンダルなど、このようなことは、マザー来日のたびに、繰り返されました。

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後日談
 ある広告代理店が、マザー列福の報道を受け、「マザー・テレサ展」の開催を考えました。そして、マザーが生前愛用された品々を貸して欲しいとインドの「神の愛の宣教者会」や、コルカタの大司教たちと連絡をとった結果、その返事は「マザー・テレサは、今や一修道会、一教区の聖人ではなく、インドの大切な聖人です。マザーの使われた全てのものは、国宝と同じ扱いをしていますので、残念ですが、貸し出しはできません」ということでした。

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マザーは、苦しんでいる人を見つける特別な才能がありました。末期ガンの宣告を受け、苦悩しているシスターがいました。そのシスターは明るく、いつもニコニコしているので、彼女の苦悩の深さを察することはできませんでした。しかし、マザーは、ミサの後、そのシスターの側に行き、「あなたのガンは、神様があなたにくださった愛のしるしですよ」と言われたそうです。そして、旅立たれる前には、「天のみ国で、私たちの愛する神様の御許でお目にかかりましょうね」と言葉をかけられました。

 多分、今ごろは、マザー・テレサとそのシスターは、きっと神のみ国で再会を果たしていることでしょう。

その後も、マザー・テレサとシスター白井との友情は、最後まで続きました。「神の愛の宣教者会」が日本に創立されてからは、マザー・テレサが泊まられることはなかったのですが、日本に来られると必ず、シスター白井を呼ばれました。マザーが飛行機の乗り継ぎのため、ちょっと成田に立ち寄られた時にも、電話で、短いながらも楽しげに話していました。

2000年8月に、シスター白井は帰天しました。彼女の最後の仕事は、コルカタの大司教からの依頼で、マザー・テレサの日本における働き、発言などをまとめて、列福調査のための資料として提出することでした。寝たっきりになった時、英文に翻訳し、インドへ送ったものが、大変役立ったと大司教から返事がきた、とうれしそうに話していました。シスター白井も今は天のみ国で、マザーと再会し、また楽しく歓談していることでしょう。

シスター白井が、マザー・テレサにつけたあだなは、「愛の運びやさん」でした。

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 今年3月、小学校高学年向けにポプラ社から出版された『この人を見よ!歴史をつくった人びと伝 9 マザー・テレサ』には、マザー・テレサをめぐる人物13人の中に唯一の日本人として、シスター白井が取り上げられています。

※ シスター白井のマザー・テレサの画像は、現在“Tecla Photo”で貸し出しを行っています。


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