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聖霊講座
第3回 イエスと“聖霊”
新約聖書の福音書では、イエスの成長の段階、また人生の大切な時期に“聖霊”が出てきます。今回は、“聖霊の書”とも呼ばれているルカ福音書と、他の3つの福音書とは一味違っているヨハネ福音書を見てみましょう。
ルカ福音書における“霊”
イエスの人生の節目節目に、聖霊がかかわってきます。ルカ福音書では、聖霊が大活躍しているようです。
聖霊によって身ごもる (並行箇所 マタイ1.18)
天使は答えた。 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。
だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
(ルカ 1.35)
エリザベトが聖霊に満たされる
マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。
エリザベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。
(ルカ 1.41~42a)
神殿にイエスをささげる
ここは、イエスと聖霊ではなく、救い主の到来を待っている人を聖霊が導き、イエスに会わせます。日本なら、お宮参りにあたる場面です。
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえ献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。 (ルカ、2.25、26)
イエスの洗礼 (並行箇所 マタイ3.13~17、マルコ1.9~11)
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
(ルカ 3.21~22)
洗礼者ヨハネは、イエスは「聖霊と火で洗礼を授ける方だ」と民衆に語ります。
(ルカ 3.16)
荒れ野で試みにあう (マタイ 4.1~11、マルコ 1.12~13)
さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。
そして、荒れ野の中を、“聖”によって引き回され、40日間、悪魔から誘惑を受けられた。
(ルカ 4.1~2a)
イエスは霊の力に満たされる
悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。
(ルカ 4.13~14)
このように聖霊は、イエスの人生の需要な場面に出てきます。聖霊の訪れによって、イエスが神の子となるのではありません。イエスがどういう方で、どういう役目を担っているかということは、マリヤへのお告げのときにはっきりと示されています。聖霊は、イエスを近くでじっと見守り、導いているかのようです。イエスが洗礼を受け、荒れ野で誘惑にあい、そして故郷のガリラヤに帰るという一連のできごとは、イエスが公に宣教活動をするために先立つものでした。聖霊は、イエスに宣教のための力を与えていました。
ヨハネ福音書における“霊”
マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は、共通の資料を元にして書かれているので、似ている部分がありますが、ヨハネ福音書、書かれた時代も、元になった資料も違っています。他の福音書が書いていないことを選んでいるようにも見えます。イエスの死を神の栄光の現れであるととらえているので、栄光の書とも呼ばれています。“霊”についても、違っています。
イエスは、聖霊によって洗礼を授ける方
ヨハネから洗礼を受けたイエスの上に、聖霊が降るというのは、すでに書いたように他の福音書と同じですが、イエスが、聖霊によって洗礼を授ける方であると宣言するのは、ヨハネだけです。
「わたしは“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
わたしはこの方を知らなかった。
しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、
『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、
その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
(ヨハネ1.29~34)
ヨハネの洗礼は、罪からの解放、清めであり、その結果やってくる新しい生き方をしていくというものでした。しかし、イエスの洗礼は、聖霊によるものです。聖霊がある人を捕らえると、神の知識がその人に与えられ、神の意志がもっと理解できるようになります。神の思いは何か、人生にはどんな意味があるのか、どこに自分の義務があるのかがわかり、神の知恵と光の一部がその人の中に入ります。何が正しいのかを知る知識のみならず、それを実行する力をも聖霊は与えてくれるのです。
私たちの精神、生命、存在が神の霊に満ちあふれるように、イエスは私たちに、神の霊を与えることができる方なのです。
霊によって、新しく生まれる
ヨハネ福音書にだけ出てくるエピソード、イエスとニコデモの出会いを見てみまし ょう。
ある晩、ファリサイ派に属するニコデモが、イエスを訪ねてきます。彼は議員で、裕福で高貴な家系に属していたユダヤの指導者の身分だったと思われます。最高の地位にいるニコデモが人目をさけて、こっそりとイエスに会いに来ます。律法を厳守し、最高の位についているにもかかわらず、人生に何か物足りなさを感じていたニコデモとイエスとの会話は、静かに夜を徹して続いたことでしょう。
「はっきり言っておく。
人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ニコデモは言った。
「年をとった者が、どうして生まれかわることができましょう。
もう一度母親の胎内に入って生まれることができるのでしょうか。」
イエスはお答えになった。
「はっきり言っておく。
だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」
(ヨハネ 3.1~21)
水は清めの象徴です。霊は力の象徴です。過去の罪に死んで、イエスによって与えられる新しい命に生きるのです。
イエスは天から来られる方
神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。
神が“霊”を限りなくお与えになるからである。
(ヨハネ 3.31~36)
“霊”は、神がお選びになった方だけに与えられます。ヘブライ人の思想では、“霊”には2つの働きがありました。まず、“霊”は神の真理を人々に啓示しました。そして、その真理が人々のところに来るとき、“霊”は、人々が真理を認め、理解できるようにさせます。神の“霊”が限りなくイエスに与えられたということは、イエスが神の真理を完全に知り、その真理を完全に理解しておられたということになります。つまり、イエスに聞くということは、神に聞くことなのです。
ルカ福音書における聖霊は、イエスに力を与え、使命へと導いていました。ヨハネ福音書における聖霊は、人が新しい命に生まれ変わるために働いているようです。
こうしてイエスは、私たちといつも一緒にいて真理を理解させる、私たちの弁護者“聖霊”を送ってくださると約束なさったのです。(ヨハネ14.15 16.5)
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