home修道生活を考えている方へどうしてシスターに?>シスター マリア・クリスチアーナ 蛯名 啓

どうしてシスターに?

バックナンバー

シスター マリア・クリスチアーナ 蛯名 啓

すべて

花


母校の小学部に勤務して、夢中で過ごした日々も過ぎ、生徒はますます可愛く、お母さん方とも親しくなり毎日が楽しく支障なく運ぶようになると、ふと、このまま一生この生活を続けてしまうのだろうか、という思いが心をかすめるようになりました。教育はやり甲斐のある仕事だし、それなりの結果も見えるものの、一人ひとりの子どもを取り巻く家庭や社会に、何かいま一つ手の届かないもどかしさを感じていました。

四旬節のある日、だれもいない畳敷きの聖堂で、ひとり十字架の道行きをしました。いつも皆で祈る時は、ひざまづいたり立ったりと忙しいので、ひとりでゆっくりしたかったのです。各留の前でぺったり座って玄義を一つずつ思いめぐらしていました。

第四留、イエスと御母マリアが出会われた場面では、お二人のお心はどんなだっただろうと、その思いに浸っていると不意に、“自分は恵まれている!”という実感が全身を包みました。理屈抜きで、“全部いただいている”と分かったのです。親、妹弟、友人……健康も、生きていることも、何もかも、有るのが当たり前と思っていて、有り難いとも思わなかったすべては、全く無償で与えられていた、という気づき。学校さえも、入ったら出るのが当たり前と思っていたことが、実は落第もしないで卒業できたのは、いただいたことだったという発見……。与え主の大きな暖かい光に全身がおおわれたようでした。うれしくて、“もう全部あげてもいい”という気分でした。昔の人のように「人生五十年」とすれば、その半分もの年月、受けるばかりだった、これからは、与えてくださった方にすっかり自分をお返しして生きたい、と、単純に思いました。

教育に一生を捧げるにしても結婚して子どもを育てあげるにしても、それなりに意義はあるけれど、何か自分のものが残るような気がする……。そこで、修道会案内で拾った幾つかの会に手紙で見学を申し込み、返信切手さえ入れていない無礼な手紙に、親切にお返事をくださったいくつかの会を訪ねました。お話を伺っていると、だいたいこういう会なんだな、とわかったような気がするのですが、その中に、見聞きするだけでは分からない会があり、心が動きました。“来てごらん”と言われたようでした。


▲ページのトップへ