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どうしてシスターに?

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シスター マリア・アゴスティナ 廣本千代子

一冊の本との出会いから

シスター廣本


それは1冊の本との出会いから始まった。『修道者』荻原 晃著。
 宗教とはあまり縁の無い環境で、のほほんと育ったわたしは、幼いころから本の虫で、よくひとりで読みふけっていた。その本は、偶然近所の本屋で見つけ、好奇心で買ったものだった。興味本位にページをめくっていたが、後半の「キリストにならいて」の抜粋まで読み進むうちに、わたしの心の中に何かが起きてきた。自己の良心の存在を意識させられたのだ。「わたしの良心……もうずい分長い間眠っている……」と何かの揺さぶりを感じた。

それからだった。この世に真理があるのだろうか。もしあるとしたら、それが神か。心の中に広がる疑問を抱えて、「真理について知りたいのですが……」と、岩国のカトリック教会を訪ねたのは、1961年の暮れのことだった。教会に通いだすと何もかもが新鮮で、図書の本も次々と読みあさった。要理・聖書関係から聖人伝や内的生活の本に至るまで海綿に水が吸い込むように、わたしの渇いた心に注ぎ込まれていった。

やがて洗礼を受け、いつしか神への渇きは、修道生活への憧憬を起こし秘かにその恵みを祈るようになっていた。同時にわたしの生活態度も変化した。そんなわたしを見た母は、「教会に行くのは良いけど、あまり深入りはしないで……」と言った。

そんなある日、日曜学校のリーダー仲間から誘われ、広島にある修道院の黙想会に参加した。指導はベーキ師だった。講話を聞くうちに、わたしの心は燃えてきた。それまでのわたしにとって修道生活は、あこがれの世界、遠い空のかなたの星のようだった。その星が輝きを増し降りてきて、わたしにせまった来るのを感じた。手を伸ばせば、わたしにもつかみ取ることができる。喜び勇んで帰ったわたしは、すぐに教会に行き、当時の主任司祭だったバルバ師に、自分の願望を打ち明けた。彼はうすうす予期していたと賛成し、女子パウロ会を紹介して下さった。あとは、両親をどう説き伏せるかが難問だった。

信者でない2人に、修道生活などわかるはずもなく、母はただ嘆き悲しんだ。家族会議のとき、大学を卒業したばかりの弟が言ってくれた。「両親は長男のぼくがみます。姉さんは自分の信じる道を進んでほしい……」と。わたしはこのことばに支えられ、振り切るようにして家をでた。

大きな力によって導かれたわたしの召命は、また多くの人々の犠牲と善意と祈りの上に成り立っている。すべてに感謝!


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