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どうしてシスターに?

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シスター ローザ・マリア・ムナリ(2)

シスターローザ


シスター ローザ・マリアがはじめて来日したころの日本の女子パウロ会は、東京の阿佐ヶ谷から乃木坂(現在の修道院の場所)に移り、日本人の志願者もいました。

シスター ローザ・マリアたちが来たとき、はじめて本格的に、一軒一軒の家を訪問するプロパガンダ(普及、広告)が本格的にはじまりました。日本語が話せなかった彼女も、志願者とともに、毎日宣教に出かけました。


日本で一番驚いたことはなんですかと尋ねると、「貧しさです。」と答えがかえってきました。彼女を驚かせたのは、子どもをおんぶして洗濯をしているお母さんや、本を買うことすら出来ない貧しさだったのです。

キリスト教に関心がある方、求めている方は多かったそうです。

シスター ローザ・マリアが強く心を打たれたのは、貧しくて本を買う余裕がないため、シスターたちが持っていった1枚のパンフレットを、ありがたく思ってくださり、喜んで受け取られたことでした。

そのころ、大森教会の主任神父だった深堀神父様は、イタリア語が上手だったので、プロパガンダの後、報告にいったりして、大変お世話になっていました。このときも、パンフレットを渡すときに、深堀神父様をご紹介しましたら、1年後、本は買えなかったが、家族で洗礼の恵みを受けたというお礼の手紙が届いたそうです。

「3、4年後にも同じような手紙を受け取り、大きななぐさめをもらった。大変なこともあったけれど、喜びの方が多い」と、シスター ローザ・マリアは、しみじみと語ってくれました。

実は、終生誓願を前にして、観想修道会(トラピストのような修道会)に移ることを考えたそうですが、この手紙をいただいた後は、女子パウロ会の召命を一度も迷うことはなかったそうです。

 

来日して2年目に、福岡の修道院に行き、そこから鹿児島まで、プロパガンダに行きました。やはり、鹿児島のザビエル教会の主任神父が、イタリア語がわかる方だったからです。

奄美大島にはじめて行ったときは、まだ日本への復帰後間もないころでした。戦争前に修道院が引き上げてしまったため、ほとんどの人が、シスターの姿を見たことがなかったようです。25年ぶりにシスターが奄美に渡ったということで、「女神父」と呼ばれました。奄美の人々からのものすごい歓迎を受けました。人々は非常に貧しかったので、本を紹介するというよりは、パンフレットをくばって歩いたそうです。

このとき、神様がくださったのが、パウロ会の右田神父様と、わたしたちの会のシスター伊集院の召命の恵みだったのです。

たばこの箱を持って、アメリカ軍の基地に寄付をもらいに行ったこともありました。海洋博覧会の次の年には、沖縄ではじめてのプロパガンダにも行きました。マザー・テレサの映画が完成したときは、九州を走りまわりました。シスター ローザ・マリアは日本中を39年の間駆けめぐり、人々に神の愛を伝えました。

1991年、イタリアで使徒職を果たすために帰国したシスター ローザ・マリアの心から、日本への思いが消えることはなかったそうです。

そして今年、10年ぶりに「イタリアまつり」で、日本の人々にバチカンのことを伝えるために来日してくれました。

シスター ローザ・マリアは、最後に「いつも思うことですが、日本の人たちは、外国人であるわたしを、いつも差別することなく受け入れてくれました。神様につかえている人ということで大切にしてくれました。“神様につかえている人”と見てもらったことに、とても感動を覚えました。また再び日本に来ることができたことを、とても感謝しています。」と語ってくれました。

日本での最初の宣教をささえてくださり、今また来日してくださったシスター ローザ・マリアに、わたしたちは、心から感謝したいと思います。

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