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どうしてシスターに?
シスター マリア・コンチェッタ 大水トキノ
神の招きは不思議
わたしはカトリック信者の家に生まれ、小さい時からカトリックの信仰や修道生活について学んで育ちました。家庭から聖職者が出ることは名誉なことで、母は誰か一人でも「童貞様になれたら」と望んでいたようです。わたしには別世界のようで、わたしのような者にはなれるはずがないと思っていました。
中学生になったころ、2人の若い女性がふろしき包みを背負って、わたしの家に反物を売りに来ました。わたしはなぜかその姿に心を引かれ「わたしもあのような仕事をしたい」と憧(あこが)れるようになりました。今でもあの後姿が目に焼きついています。
そしてわたしも成人し、将来のことについて考えはじめました。そんなある日、たいへん辺ぴな田舎にあるわたしの家に、2人のシスターが遠くからわたしをたずねて来られました。とても残暑が厳しい日でした。母が、「トキノ、童貞様が来なさったから、ちょっと降りて来い」とわたしを呼びました。「もう童貞様にはならんから行かない」とわたしは答えたのですが、しつこく呼ぶのでしかたなく降りていきました。
それが、聖パウロ女子修道会のシスターとの運命的な出会いだったのです。緊張して何も話せませんでした。後日、わたしは2時間も歩いてシスターたちに会いに行き、そこで修道生活についてのいろいろなお話を聞きました。そして「宣教のため家庭訪問をする」ことを話されたとき、すっかり心を動かされました。神様の存在やその素晴らしさを伝えて回るのだと理解したからです。
入会を決めて帰ったとき、母は「お前は会社に行っても、行っちゃ帰り、行っちゃ帰りで勤まらんじゃった。やっぱり修道院に行くことになっていたんだね」と。それが許可でした。それから一週間後、わたしは修道院に入りました。
あれから40余年、修道生活の大半をわたしは訪問宣教の使徒職に従事しています。ふと気がついたら、あのふろしき包みを背負って歩く後姿を、じっと眺めたときの思いと重なり不思議に感じます。
わたしは形から入りましたが、神様はわたしの生涯のために、一本の道筋を敷いてくださっていたのだなと思います。今も、その道を歩きつづけたいと励んでいます。