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山本神父入門講座

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14. 幸いと不幸

山上の垂訓の教会
山上の垂訓の教会

十二使徒を任命したあと、イエスは彼らといっしょに山から下りて来た。すると、大勢の人びとが待っていた。都エルサレムをはじめ、ユダヤ全土から来た人びとである。イエスは、汚(けが)れた霊に取りつかれた人々や、病気をいやしていた。しばらくして、イエスは、病人たちから目を上げてまわりの人びとを見た。彼らはいやしてもらうだけでなく、イエスの教えも聞きたかったのだ。そこでイエスは話し始めた。

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」(ルカ6章20~21節)。この言葉はショックである。人びとの考えとは正反対である。貧しさは最大の不幸、全ての不幸の源だ。これが普通の考えである。

イエスは追い撃ちをかけるように言われた。「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」(ルカ6章24~25節)。


本当にそうなのか。私たちは富こそ幸せ、幸せの源とおもうが、イエスの真意は何なのか。

お金があれば、欲しいものは何でも手に入る。物だけではない。入試、就職試験、利権、地位、昇進、もみ消し等、何でも金で何とかなる。富んだ人はそう考え、そのように行動している。「いくら積んだら合格にしてくれますか」と、ゼロの数が幾つかという金額を言われたことがある。やっぱり本当なんだ、賄賂(わいろ)ってあるんだと、妙に感心したが、事態は重大である。「試験に受かれば、入学手続き金をいただきます。受からなければ何億円でもだめです」と答えた。

富は、いつしか自分の望みを、金にものを言わせて実現させようとする、こわい傾向を持っている。そして、その望みの実現以外のことは、一切、頭に入らない。その望みは正しいことなのか。それは本当に幸せなのか。こういうことは眼中にない。「神さまが何と言おうと、人がどう考えようと、自分の望みが善なのだ」と考える。そして、自分の富と富から生じる権力、地位に奢(おご)って、ふんぞり返っている。

そんな人が不治の病にかかったりすると、途端に絶望的になる。持っているものは何もお墓の向こうには持っていけないからである。富に溺れているうちに、神さまとの関係がすっかり切れていたのだ。自分の人生は無駄だったのだ。
 「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる」(ルカ6章24~25節)。


貧しい人はどうなのだろうか。生活に必要なお金もない。明日とは言わない、今日(きょう)をどうして過ごそうかという人は、解決するすべもなく、周囲の人に、そして、神さまに願うしかない。厳しい生活である。

「私たちに必要な糧(かて)を今日もお与えください」という主の祈りの一節を唱えるのである。この人々の満たされない心は、いつか神の国でそれを満たしたくださる神に結ばれている。神さまと縁が切れてしまうような生活だけはしたくない。


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