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山本神父入門講座
17. イエスをもてなす心の違い
福音書には、読者をはっとさせる場面もある。これから読む箇所もその一つだと思う。
ある時、イエスはファリサイ派の人から食事に誘われた。反対派からのお誘いで、「どうして?」とか思ったかもしれないが、イエスはその人の家に行かれた。ルカ福音書はいきなり場面を急展開させる。宴席に「罪深い女」が入ってきたのである。しかも「お目当て」はイエスで、当時の習慣どおり左脇を下にして横たわって食事をしておられたイエスに、彼女は「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(ルカ7章37~38節)。
その頃の開放的なつくりの家で誰でも出入りできたので、入ってきたことは仕方がないとしても、行動が「過激」ではないか。同席の人は驚きと当惑で押し黙っていた。招待したファリサイ派の人は、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。口にこそ出さないが「やっぱり大した奴ではないな」と考えたに違いない。イエスを招いたのも、言わば「値踏み」をするためだったのだ。同席者の間に気まずい空気がみなぎり、沈黙がますます重くなった。
「シモン、あなたに言いたいことがある」と切り出されたイエスが言われた。「二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」。多く許された方に決まっている。シモンはそう答えた。もし、その二人が金貸しを招待したら、多く許してもらった方が、よりよくもてなそうとするだろうと思われる。
そこで、イエスは「罪の女」とシモンのイエスに対するもてなしを比較された。「わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(ルカ7章44~47節) 。
イエスを招いておきながら、招待客に対する礼儀も守らなかったシモン、もともと招待も好意のしるしではなく、イエスを評価する機会をつくるためだった。他方、「招かれざる客」だった「罪の女」は、ただひたすらイエスに会うために入ってきた。自分の罪深さが分かっても、誰も受け入れてくれないその孤独のなかで、いつか、どこかで逢ったイエスだけが自分を受け入れてくれた。この先どうしたらよいのか、誰か自分のことをかまってくれるのか。あれこれ思い悩むうちに、また、行き詰まりそうになる。「罪の女」は「罪の相手」ではない人を求めていたが、なかなか見つからない。そうだ、イエスさまのところへ行こう。お礼を言いに、これからのことをお願いするために。そして入って来たこの人の行為は、やや常識をはずれたところがあった。
しかし、イエスはそのことも、その行いに秘められた思いも分かってくださった。イエスは、「罪の相手」ではない「罪人の友」になってくださった。そして、イエスの「友」であることで、もう「罪人」ではないのだということを教えてくださった。「イエスは女に、『あなたの罪は赦された』と言われた。同席の人たちは「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろうと考え始めた」(ルカ7章48~49節)。
この人こそ、私たちの救い主なのだと、ルカ福音書は言っている。そして、私もそう信じて生きている。