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山本神父入門講座

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18. 「イエス一行」の加入資格

「罪の女」のゆるし、その感動に浸る余裕も与えず、ルカは急ぐ。「すぐその後、 イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」(ルカ8章1節)。

み心のイエス

そこに思いがけない人々がいた。「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。」(ルカ8章2~3節)。

この婦人たちは、感謝と尊敬からイエスを離れず、宣教活動に加えてもらった。そして、「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」(ルカ8章3節)。つまり、経済的支援の役割を負っていた。いやしを受けてもみんながイエスと行を共にしたのではない。望んでもイエスが、故郷で宣教するようにと言われたこともある。十二使徒に婦人たちが加わり、いつしか文字どおり「イエス一行」になっていた。どうすれば、「一行」に加えてもらえるのか。イエスの「種蒔(ま)く人のたとえ」はそれを教えている。


イエスは言われた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種はよい土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」(ルカ8章5~8節)。

弟子たちの求めに応えてイエスはたとえの意味を説明された。種は神の言葉、落ちた場所は聞く人の心。場所の相違は聞く態度の違いである。「道端のものとは、御(み)言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」(ルカ8章12節)。都合の悪いことは聞き流す。結果は拒絶と同じである。

「石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」(ルカ8章13 節)。聞いて喜ぶだけではだめなのである。難しくても実行して、根を張らなければ長続きはしない。

「茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩(わずら)いや富や快楽に覆(おお)いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」(ルカ8 章14節)。神の御言葉であっても、この世では、純粋培養、真空栽培は期待できない。不純なものとの戦いは避けられない。神の教えか、富・快楽・我欲か、どちらを選ぶかである。

「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(ルカ8章15節)。 この人々だけが、「イエス一行」に加えられる。「一行」の行く道はいつも平坦ではない。先頭を歩むイエスの言葉に耳を傾けながら、それをよく守り、転んだら立ち上がり、間違ったらゆるしを乞うて、歩み続けるのである。それが忍耐である。


「イエス一行」には、縁故はきかない。こんなことがあった。「イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。」それを見た誰かが気をきかせて、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」とイエスに知らせた。するとイエスは、「わたしの母、わたしの 兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われた(ルカ8章19~21節)。

神の言葉に耳を傾け、それを実行に移すことで、一番優(すぐ)れているのは、イエスの母マリアである。イエスはそれを問題にしたのではない。人には優しく、親切で、人が避ける罪人や徴税人たちとも付き合っていたイエスが、こんなに厳しいことを言われたのは、神の国、福音が問題になるときには、血縁も地縁もすべてのコネもきかないのだということを強調したかったのである。

わたしたちはともすれば、「抜け道」、「非常口」を探す。そして、それが「道端……」なのだということに気づかないでいる。


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