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25. イエスの姿が変わる イエスの変容

変容の教会
変容の教会

受難の予告をしたイエスの態度は断固たるものであった。ガリラヤでの宣教活動に見られた穏やかさからは想像できないきびしさである。ペトロの激しい抗議をしりぞけ、彼をサタン呼ばわりもした。さらに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者はそれを得る」(マタイ16章24-25節)。

「だめだ、わたしにはとてもできない。」ここまでそう思っても、がっかりすることはない。十二使徒だって、すぐに受け入れた訳ではなかった。受難の予告が唐突だったので、衝撃のあまり意味を考える余裕がなかった。落ち着いて考えれば、イエスの要求は、不条理とは言えない。人間、我をとおすだけで人に譲れない、自分の望みが正しくないと分かっても断念できない、そんな自己中心主義、エゴイストはだめである。

また、自分の望みに反することでもこらえて、忍耐強くやり抜く力がなければ、一人前の人間とは言えない。イエスの要求がこれに尽きるとは言わないが、このように考えれば少し理解できる。

イエスはまた、たとえで、理解を助けようともされた。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(ヨハネ12章24-25節)。麦の収穫を得るためには、麦粒は自己の存在を犠牲にしなければならない。麦粒を保全したままで、麦を刈り取ろうというのは、無理な要求である。このような試みによっても、神の国のためのイエスの要求を弟子たちに分からせることはできなかった。そのような雰囲気の中で、イエスの変容は起こったのである。


これからは、再びルカに従っていこう。
 受難予告をめぐるイエスと十二人のやり取りのあとである。「この話しをしてから八日ほどたったとき、イエスはペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。」この三人は、最後の晩餐(ばんさん)のあと、ゲッセマネの祈りのときにも立ち合ったイエスの腹心の弟子である。

「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」簡単に言うと、イエスの姿全体が、神の栄光を帯びて神的存在になったのである。「見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである」(ルカ9章28ー30)。

モーセは神から遣わされて、奴隷状態にあったイスラエル人をエジプトから導き出し、40年の苦しい試練の多い荒れ野の旅を経て、約束の地の対岸まで導き、後継者ヨシュアがその地に入るようにとの神の定めに従った旧約の偉大な指導者である。

エリヤは、紀元前 869年から 845年にかけて北イスラエルで、偶像礼拝に陥った王や祭司と戦った旧約の偉大な預言者である。

モーセは「律法の書」・モーセ五書( 創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)の「著者」として、律法の代表者、エリヤは預言者の代表者として「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9章31節)。

イエスが神的存在であることを示し、旧約からの歴史が、神の栄光の中でまとめられているところで、ペトロと十二使徒が、問題にしていた「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」というのは極めて意味深長である。

「ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのはすばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もうーつはエリヤためです。』ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。』と言う声が雲の中かれ聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった」(ルカ9章32-36節)。


変容の教会

変容は、受難の予告をどうしても受け入れられなかった人間ペトロ全体を、すっぽり神の栄光で包み込んで、受難の予告が、イエスひとりの考えではなく、神さまと旧約以来の歴史をすべて貫いている神のご計画であることを、「感じさせようとした」神のはからいであった。そのようなすべての不思議にもかかわらず、やはり唯一大切なのは、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」ということである。

イエスのことばをすぐには受け入れられずに抵抗したペトロをイエスがどれほど大切に、やさしく取り扱われたかを考えると、感動する。イエスはわたしたち一人一人にも同じように優しく接しておられるのである。


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