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山本神父入門講座

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29. 神の愛と隣人愛・サマリア人のたとえ

善きサマリア人

人間にとって最も大切なことは、永遠の命を受け継ぐことである。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(ルカ9章25節) とイエスも言っておられる。このことばをパリ大学の同僚イグナチオ・ロヨラから聞いたために、フランシスコ・ザビエルが回心したとも言われている。


どうすれば、永遠の命を確実に手に入れることができるのか。これは重大問題である。ファリサイ人や律法学者が好んだ議論のテーマである。その議論に巻き込もうと思ったのか、「ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』」(ルカ10章25節)。イエスは答える代わりに、質問を返された。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(ルカ10章26節)。 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」(ルカ10章27節)。イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命を得られる」(ルカ10章28節)。彼の答えの前半は、ユダヤ人が毎朝唱える信仰宣言「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」 (申命記 6章4-5節) に含まれているので、律法学者は特に言うことがなかったが、レビ記19章18節(☆注参照) に由来する後半に関しては、隣人とはだれかが議論されていた。

ユダヤ人たちは、敵と隣人を区別していた。敵でない隣人は、イスラエル民族、改宗者を含めたユダヤ教徒、同郷人、親戚、家族、近所の人などに区分される。だから、律法の専門家は、それをはっきりさせなければ、隣人を愛することはできないと、「自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った」(ルカ10章29節)。


イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばにくると、その人を見て憐(あわ)れに思い近寄って傷に油とふどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(ルカ10章30-36節)。 「隣人とはだれですか」との問いに対し、イエスは「だれが隣人になったと思うか」との問いを返された。 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10章36-37節)。

「行って、同じようにしなさい」。このことばは、律法の専門家にとっては意外な答えだったに違いない。「同じように」と言われても、イエスが語られたのと同じ状況に、自分が置かれることはまずない。では、イエスは何を言おうとされたのか。イエスは、律法学者がするような、枠組みの設定・おきて化を拒まれたのである。祭司、レビ人の二人は、死体に触れると汚れを帯び、神殿での義務を果たす資格が失われる立場にあった。また、サマリア人も、油やぶどう酒にお金の持合せがあり、また時間に余裕があったからよかったが、何かがない場合の方が多い。置かれる事情は様々に変わるから、「何をすべきでか」を規定することは不可能である。しかし、「その人を見ると、道の向こう側を通って行った」二人と、「その人を見て憐(あわ)れに思い、近寄って・・・」介抱したサマリア人の間には、やはり、心の相違が感じられる。イエスが問題にされたのは、行動の底にあるこの心の違いではないだろうか。


イエスは、だれが隣人であるかを枠付けすることを避け、助けを必要としている人が隣人であることを示された。そして、自分が、助けを必要とする状況にあったら、どうして欲しいか、それを考えて、自分の前で助けを必要としている人に、自分のできる限りのことをすることが、「隣人を自分のように愛する」ことであり。そのような隣人愛がなければ、人は、心を尽くし精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、神である主を愛することができない。そのことをイエスは教えてくださった。  このテーマについては、マタイ25章31-46節を併せて読まれることをお勧めする。

☆注:レビ記 19章18節
 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。


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