home >キリスト教入門> 山本神父入門講座> 37. 二使徒との別れとオリーブ山での祈り

山本神父入門講座

INDEX

37. 十二使徒との別れとオリーブ山での祈り

イエスが祈られた園
イエスが祈られた園

パンとぶどう酒を「わたしの体」、「わたしの血」として与えた直後、イエスは言われた。「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおりに去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」(ルカ22章21-22節)。

使徒たちに衝撃が走り、「自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのか」と「犯人探し」が始まった。だれかは分からず、話しは、自分たちのうちでだれがいちばん偉いのかに変わっていった。受難と十字架の予告をとらえられなかった使徒たちには、最後を前にしたイエスの切迫感もつかめなかったのかだろうか。

そんな弟子たちに、イエスは、王や権力者を偉いとする異邦人の考え方に触れて言われた。「しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である」(ルカ22章24-27節)。

イエスは使徒たちに対しても、最後まで仕える姿勢を崩さず、分かりの遅い使徒たちには忍耐強く説明し、試練の準備をされた。ヨハネ福音書は、この時イエスが裏切り者ユダを含めた十二使徒の足を洗われた場面を描いている (ヨハネ 13章1-20節)。教会では最後の晩餐(ばんさん)が記念される受難の木曜日の儀式に洗足式も取り入れられている。ぜひ、併せて読んでいただきたい。


使徒たちは理解こそ遅かったが、イエスに従うひたむきな善意を持っていた。それにイエスは触れた。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(ルカ22章28-30節)。 これが具体的にどんなことなのか使徒たちは分からなかった。しかし、それを評価してくれたイエスの優しさと励ましは伝わったに違いない。

ペトロには、まず使徒たち全体に対する任務を話された。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。   自分が使徒たちの「支え」と考えられていることは、ペトロを喜ばせたが、自分も倒れて立ち直ることにこだわった。人はどうなっても、自分はひたすら忠実でありたいと思って言った。「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」すると、思いがけない答えが返ってきた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないと言うだろう。」
 イエスはさらに使徒たちに話されたが、使徒たちには通じなかった。最後の晩餐(ばんさん)後の使徒たちの状況は、このようなもので、イエスのなさることを理解し、それに従っていく準備ができていた訳では決してなかった(ルカ22章31-38節)。


最後の晩餐のあと、「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。『父よ、御心(みこころ)なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください』」(ルカ22章39-42節)。受難の予告をされた時、イエスはいつも落ち着いておられ、取り乱したことは一度もなかった。しかし、今は違う。マルコ福音書はこう書いている。「イエスは弟子たちに、『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り... 」(マルコ14章32-35節) 。

イエスは、死につながる受難、十字架に対して強い拒絶反応を感じられた。だから、何でもおできになる父がそれを取り除くようにと、率直に訴えられた。同時に、イエスは「まさにこの時のために来た」(ヨハネ12章27)ことも意識しておられた。内的対立と分裂の中でイエスは言われた。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」激しい内面の戦いの果てに、イエスは神への従順を貫いた。全人格あげての葛藤(かっとう)であった。「天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよせつに祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」内面の葛藤の激しさ、極限状況を表す肉体の反応である。苦しく、厳しい祈りを終えてイエスは弟子たちのところに戻って来られた。「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」イエスの極限までの苦悶(くもん)を見ることに彼らは耐えられなかったのである(ルカ22章42-46節)。


イエスは神の子であると信じる人は、ともすれば神の子の力で、イエスが簡単に受難と十字架の死を担われたのだと考える。別の言い方をすれば、苦しみがイエス全体を貫いていないとでも言うのだろうか。しかし、それは間違っている。 ヘブライ人への手紙は書いている。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子(みこ)であるにもかかわれず多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ 5章7-8節)。

御受難の時、特に、オリーブ山の祈りの時、イエスの心は、神の聖旨(みむね)を受け入れるか、それに背くかのぎりぎりの決断を迫られた。そして、その苦しみを極限まで味わわれた。そのことを見逃してはならない。そうすれば、わたしたちも従順を難しく感じるとき、イエスが共にその苦しみを味われたことを思い、友であるイエスが救い主であることを感じることができるのである。


▲ページのトップへ