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山本神父入門講座
41. イエスの死と葬り
十字架降下
イエスが十字架の上で亡くなられたありさまは、四つの福音書がそれぞれの特色を打ち出しながらも、多くの共通点を並行させながら描いている。
その中で、ヨハネの福音書が特に注目を集める部分がある。他の福音書も書いているとおり、兵士たちがイエスの衣服を分け合ったことを記した後、ヨハネは書いている。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(ヨハネ 19章25-27節)。
イエスが、自分のいのちを捧げることによって、父から与えられた使命を果たす時が近づいていた。それは、マリアが天使に答えた「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ 1章38節)。 と言う言葉が真の意味で完成する時であり、幼子イエスを神殿で奉献した時、シメオン老人が言った言葉が実現する時でもあった。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。― あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ 2章34-35節)。
マリアは、イエスの使命、そして、イエスの使命のもとにある自分の使命の実現の時、使命を完成される御子と共に、立っておられた。イエスは、マリアに「御覧なさい。あなたの子です」と言うことによって、マリアの子である自分がいなくなること、しかし、それでマリアの母としての使命が終わるのではなく、イエスの十字架の死によってあがなわれるすべての神の子らの世話をする母となることを求めたのである。マリアはすべての神の子の母、キリストを信じる者の母となったのである。今度は、ヨハネだと考えられる弟子に向かって、「見なさい。あなたの母です」と言われた。
この弟子はマリアを自分の家に引き取ったと書いてあるから、亡くなった子の代わりに母の面倒を見るという意味に取れる。また、その一面があることを否定するつもりもないが、イエスがマリアと同じ家に住み、マリアの面倒を見ていたとは考えられないので、この文章も、キリストを信じるすべての人にとって、マリアが母であることを示すものである。
イエスと二人の犯罪人が十字架にかけられた日は、準備の日で翌日は安息日だったので遺体が十字架に残らぬようにする必要があった。それで足を折って殺した。しかし、イエスはもう亡くなっていたので、足は折らなかった。ヨハネは、これは過越の羊の骨は折られないという定めが、イエスの上に実現したもので、イエスが民のために捧げられる過越の羊であることを示すものと考えている(ヨハネ 19章31-37節 参照)。
イエスがお亡くなりになったあとで、福音書が描く周囲の状況は微妙に変わってくる。ルカに従って行こう。「さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布(あまぬの)で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた」(ルカ 23章50-53節)。
ヨハネは、「そこへ、かってある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た」(ヨハネ 19章39節)と書いている。アリマタヤのヨセフやニコデモなど、いわば「隠れ弟子」のような人が現れて、その地位と力でピラトと掛け合って遺体を降ろし、だれからの抵抗も妨害も受けないで、埋葬することができた。
日没が迫っていた。日没とともに安息日が始まる。「その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様(ありさま)とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した」(ルカ 23章54-56節)。 婦人たちの心残りが伝わって来るようだ。
マタイは全く別の事を書き加えている。「明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。『閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、“自分は三日後に復活する”と言っていたのを、私たちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、“イエスは死者の中から復活した”などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります』ピラトは言った。『あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。』そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた」(マタイ 27章62-66節)。
ユダヤ人たちが一番恐れていたのは、イエスが奇跡で自分を救うのではないかということだった。そのようなこともなく、死刑の執行によって、すべてが彼らの思いどおりになったが、彼らはまだ不安だった。それはイエスが予告した「三日後の復活」である。