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山本神父入門講座
44. イエスの復活 3
聖ペトロの洗礼の教会
復活したイエスの出現を描く四つの福音書は、共通の要素をもちながら、特色を示している。十一人への出現を描くヨハネの記述も特徴的である。
「週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵(かぎ)をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」。この出現はルカ24章36節以下のそれと同じものと思われるが、ルカとヨハネの焦点は異なる。ルカは復活したイエスの説明を詳述するが、ヨハネの中心は、使徒たちの派遣と信仰である。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20章 19-23節)。
宣教活動のはじめのころ、イエスは中風の人に、「あなたの罪は赦された」と言われ、それが冒涜(ぼうとく)だと非難されると、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言って、中風者をいやされた(ルカ5章17-26節)。 復活したイエスは、十一人の派遣に当たって、その「罪を赦す権威」を授けられた。これは教会のなかで、やがて「ゆるしの秘跡」となるものであるが、それについては改めて説明する。
使徒たちの派遣を含んだ展望は、思いがけないことで日常の現実に戻された。イエスが来られたとき一緒にいなかったディディモと呼ばれるトマスが、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言い出したからである。
八日後、「戸にはみな鍵(かぎ)がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」
エマオへ去って行く失意の二人を追った「旅人」と同じ心で、イエスは再び来られた。「信じない」トマスを「信じる者」にするためである。イエスの愛と心遣いに触れたトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と言って、復活うんぬんをとおりこした最高の信仰告白をした。そのトマスにイエスは言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。
弟子たちが「主が来られた」と言ったとき、イエスが来られたのだとトマスも思ったに違いない。それを受け入れる十分な理由もあり、条件も整っていた。必要なことは、それを受諾する、認めることだけだった。しかし、そこでトマスは「ごねた」のである。承諾することを拒んだのである。直接の経験は有無を言わさず認めさせるが、他人の言葉を受け入れるか否かは自由意志の決断によるのである。トマスはイエスの手の傷にも、わき腹の傷にも触れはしなかった。イエスの優しい心が、トマスの心に触れたからである。そして、トマスは、信じなかったことの愚かさを改めて感じたのだった。
ヨハネの第21章は、いったん終わった福音書に追加されたものであるが(ヨハネ 20章30-31節)、復活したイエスの大切な出現を描いている。
聖ペトロの逆さ磔
7人の弟子がシモン・ペトロの呼掛けで、ティベリアス湖に漁に行き、何も取れなかった夜の明け方の思いがけない大漁に、イエスの出現だと気づき、一緒に朝食をして、イエスとの静かなときを過ごした。
食事のあと、イエスはペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。ペトロが言葉を選んで、慎重に答えていることがいやというほど感じられる。「この人たち以上に」と躊躇(ちゆうちょ)なく答えたに違いない。それをあの三度の否みが控えさせた。イエスは二度目に聞かれた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは再び、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」すると、イエスはまた、「わたしの羊の世話をしなさい。」イエスはさらに三度目の質問をされる。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神に栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた(ヨハネ21章15-19節)。
ペトロの三回の否みは、十一人すべての心にある傷を残していた。イエスは細かい心遣いで、その全てをいやし、取り去られた。
イエスは、他の十人の弟子たちの前で、まず、あの否みを連想させる三回の質問によってペトロの名誉を回復し、羊を飼い、世話をするようにと三度繰り返すことで、三度の否みにもかかわらず、ペトロに使徒の頭としての使命と権威を改めて確認された。そして、ペトロが最後まで、忠実に主に従い、その使命を全うすることも明らかにされた。イエスのやさしい心遣いが随所に現れている。