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山本神父入門講座

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46. 聖霊降臨

聖霊降臨
聖霊降臨

イエスの昇天と聖霊の約束、マリアを囲んでの祈りと使徒マティアの選出によって、使徒たちは落着きを取り戻した。イエスは共におられなくても、十字架の死の時とは違い、神のもとに昇天するのを見たので、静かに約束の聖霊を待っていた。それにしても、何が起こるのだろうか。イエスと共に生活し、宣教することに慣れた十二使徒にとっては、やはり、イエスの不在感は強かった。それは昇天の十日後、過越祭から五十日目に起こった。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。イエスの出現ではない。だれかが来たのでもない。十二使徒が、一人一人、「中からの強い力と促し」を受けた。それが、彼らを変えた。

「エルサレムには、天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちはめいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか』」。使徒言行録は十五、六の国や地方の名をあげ、広範な地域から異なった言語の人が多数いたことを描いている。人々は「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」と驚き、とまどい、最後には、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者も出た (使徒言行録 2章1-14節)。


言語に堪能(たんのう)な人なら、自分で自分の話を通訳して話す人はいる。また、一つの話を日本語ではじめ、英語で続け、さらにスペイン語につなぐことができる人もいる。しかし、口はひとつしかないのだから、同時に幾つかの国語を話すことは不可能である。だから五旬祭の場面は、使徒たちがアラム語(あるいはヒブル語)で話していたのを、聴衆が各自の国語で理解したことを描いているのである。

使徒たちは、ことばの通じない大勢の人を前にして困惑したに違いない。しかし、彼らが受けた「中からの強い力と促し」は、躊躇(ちゅうちょ)させなかった。話しはじめて、彼らは通じるはずがない自分たちの話が、すべての人に「通じて」いることに気づいた。聖霊が十数か国語に「同時通訳」したくださったのだろうか。それは通訳ではない、言語を超越する霊のわざである。使徒たちは、どうしてそうなるのか説明はできないが、福音が言語の壁を超越したことを体験した。

言葉ができなくて苦労する宣教師は多い。聖フランシスコ・ザビエルも日本語はうまくなかったと言われる。しかし、福音と相いれない言語は存在しない。聖霊がその壁を乗り越えさせるのである。キリスト教が、世界中の国々に伝えられ、その国々の言葉で宣教されている現実を考えると、大きな聖霊の力を感じる。福音と言語、福音と文化のあいだには、困難や問題が存在する。しかし、問題や困難にぶつかっても、努力をすればそれを超えていく力を聖霊は与えてくださるということを、十二使徒は体験したのである。

五旬祭のできごとは「同時通訳」だけではない。「中からの強い力と促し」が、彼らに力と勇気を与え、彼らを変えてしまった。それまでユダヤ人を恐れて、部屋に閉じこもっていた十二使徒がペトロと共に立ち上がって、堂々と話したのである。イエスを十字架に架けて殺した最高法院は、イエスの弟子と信徒たちを捕らえ、処刑する可能性は十分にあった。だから、十二使徒がひきょうだ憶病だと、ただ非難することはできないように思う。しかし、大切な点は、彼らが突然変わったということである。彼らはまず、自分たちの話しが多くの国語で受け取られているのは、酒のせいではなく、神の霊の働きであることを、預言者ヨエルを引用して語った。


聖霊降臨

次に彼らは、イエスについて力強く述べた。「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。・・・だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」 (使徒言行録 2章22-24,36節)。

ペトロも他の弟子たちも、話を準備する時間はなかった。「中からの強い力と促し」が話させたのである。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも与えられているものなのです。』ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」 (使徒言行録 2章37-42節)。

こうして、十二使徒は「イエス抜き」で、「イエスから受けた宣教」を行う最初の体験をした。イエスは聖霊を通して彼らと共にいて、彼らを導き、最後の晩餐(ばんさん)のときに定めた「パンを裂く」ことを通して、彼らと共にご自分をささげ続ける、新しい仕組み、教会が誕生した。

折から今日は12月25日クリスマス、イエスの降誕を祝う日です。この日、教会の誕生についてご一緒に考えることができてよかったと思います。


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