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山本神父入門講座
52. 洗礼の秘跡
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべてを守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ 28章18-20節)。マタイ福音書が伝えるイエスの最後の言葉である。
使徒たちを派遣するイエスは、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ 28章20節) と言われるが、どのようにして共におられるのだろうか。使徒たちの行う洗礼と教えによってである。キリスト教会はずっとその命令に従ってきた。
受洗者に向かって、司祭は「わたしは、父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」と唱えながら額に水を3度注ぐ。あるいは全身を水に沈める。これが洗礼の秘跡である。
イエスは、自分が直接に教え、人々を弟子にすることができなくなることを知って、使徒たちの手で、人々を自分の弟子にする手立て・洗礼の秘跡をお定めになった。しかし、洗礼は間に合わせの便法ではない。
ヨハネ福音書第3章を読もう。ファリサイ派の最高法院議員ニコデモが、「ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。』イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(ヨハネ 3章3-6節)。
イエスが説く神の国が遠のいた印象を受けるが、そうだろうか。ヨハネの先を読もう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ 3章16-17節)。 神の独り子は、わたしたちを救うためにこの世に来られた。それはわたしたちが、「一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」つまり、この世の命ではなく、神の永遠の命を生きるようになるためである。
人間として生まれた生命だけでは、神の永遠の命にはならない。だから、神の命に、新たに生まれなければならないのである。しかし、その「生まれ」はニコデモが考えたような、母からの再出産ではなく、水と霊による、すなわち、洗礼の秘跡による新生である。神が、その独り子をお与えになったのは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ 3章16節)。
洗礼を受ける人は、神の独り子を信じるから、受けるのである。洗礼は信仰によって行われる行為である。その信仰のなかで受ける洗礼によって、受洗者は確実に永遠の命を神からいただくのである。そのように神さまはお定めになり、洗礼を秘跡とされたのである。だから、洗礼の直前に受洗者は次の3つの質問を受ける。
「あなたは、天地の創造主、全能の、神である父を信じますか。父のひとり子、おとめマリアから生まれ、苦しみを受けて葬られ、死者のうちから復活して、父の右におられる主イエス・キリストを信じますか。聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じますか」。その各々に「信じます」と答えることによって受洗者は信仰宣言をするのである。このように信仰宣言には神やイエス、あるいは教会についてのさまざまな教えが含まれている。そのため、洗礼準備には通常、約1カ年の教えの研究が求められている。
ヨルダン川での洗礼式
しかし、もう一つ疑問がある。それは、人間は神から創られたのに、「生まれたまま」つまり「神から創られたまま」では、神の国に入れないのか。神から創られたのだから新しく生まれる必要などないはずだというのである。
もっともな疑問であるが、いちばんの問題は、「生まれたまま」は本当に「神から創られたまま」なのかである。この点についての聖書の説明は微妙である。簡単に言うと、最初の人間アダムが罪を犯したために、アダム本人だけでなく、彼において人類全体が罪の状態、神の赦しが必要な状態に落ちてしまったのである。
アダムの罪で、人類は「神から創られたまま」ではなくなってしまったのである。従って、アダム以後、人はみんな、「神から創られたまま」ではなく、「罪の状態・神の赦しが必要な状態」に生まれてくることになった。アダムの子孫の、「生まれたままの状態」は、「神から創られたまま」ではなく、「罪の状態・神の赦しが必要な状態」なのである。教会はこれを原罪と呼んでいる。
パウロは、ローマの信徒への手紙(5章12-21節)で、創世記第3章を背景に、アダムの罪と人類全体が罪に落ちたことを説明している。この原罪・「罪の状態・神の赦しが必要な状態」から解放は、洗礼の秘跡における神からの赦しによって行われる。洗礼の秘跡によって、その人の原罪と自分で犯したすべての罪に対する神の赦しが与えられる。
洗礼の信仰宣言の前に、受洗者は3つの質問を受ける。「あなたは、神の子の自由に生きるために罪のわざを退けますか。罪に支配されることがないように、悪を退けますか。神に反するすべてのものを退けますか。」そのすべてに「退けます」と答えることによって、罪の赦しの前提となる「悪霊の拒否」が行われるのである。
パウロは洗礼を次のようにまとめている。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストとともに十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。・・・このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(ロマ 6章4-11節)。
このように、洗礼の秘跡はキリストの復活と密接に結ばれている。そのため洗礼の秘跡は、復活徹夜祭に授けられることになっている。成人の場合、まず入門式にあずかり求道者となる。次いで、洗礼志願式を行って洗礼志願者となる。そして、復活徹夜祭に洗礼・堅信・聖体を受ける。さまざまな事情で、洗礼の秘跡が復活徹夜祭以外の日、たとえば降誕祭などに行われることもあるが、この三段階は守られるようにする。また、堅信だけを切り離して、行うこともある。