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山本神父入門講座

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57. 結 婚

結婚の秘跡

イエスの結婚とのかかわりを考えると、カナの奇跡を思い出す。ガリラヤ、イエスの故郷ナザレの近く、カナという町で婚礼があって、「イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。」そのとき、困ったことにぶどう酒が足りなくなった。

マリアは「ぶどう酒がなくなりました」とそっとイエスに告げた。イエスはすぐに動こうとはしなかったが、やがて、そこにあった大きな水がめ6つに水を満たさせ、それを酌んで宴会の世話役のところへ持って行かせた。水は、事情を知らない世話役が驚いたほど、よいぶどう酒に変わっていた。

イエスは、この奇跡で、花婿花嫁を困惑から救い、幸せな婚礼ができるように取り計らわれた (ヨハネ 2章1-13節 参照)。 イエスが結婚を大切にしておられることが分かる、あたたかい場面である。しかし、イエスの結婚とのかかわりは、いつもこのようにほのぼのとしたやさしさを感じさせるものばかりではない。


マルコ福音書は、もっときびしい場面を伝えている。イエスがいつものように群衆に教えておられると、ファリサイ派の人々が近寄って「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか。」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。

彼らの魂胆を見抜かれたのか、イエスは質問には答えず、「モーセはあなたたちに何と命じたか。」と問い返された。彼らは答えた「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」(マルコ 10章1-4節)。確かに旧約聖書には次のように書いてある。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記 24章1-4節) 。

この個所をめぐっては、どんな恥ずべきことが妻にあり、気に入らなくなったら、離縁できるのかについて、ファリサイ派の人々や律法学者の間で意見が分かれていた。彼らはイエスをこの議論に巻き込もうとしたのだと思われる。

そこでイエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」(マルコ 10章1-5節)。この個所は、離縁してもよいという許可のおきてではなく、何らかの理由で、結婚の継続が不可能となり、離別を余儀なくされたとき、夫が妻を捨てたり、追い出したりして、妻が不当に取り扱われることを防ぎ、妻の人権を守るために、きちんと離縁状をわたすことを命じたものである。


結婚の指輪

イエスはまずそのことを明らかにされた上で、結婚そのものについて教えられた。「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、2人は一体となる。だから2人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マルコ10章6-9節)。

よく離婚がおきてによって禁止されていると言われるが、イエスは、結婚そのものが、離婚ということを排除していると教えておられる。カトリック教会は、信者と信者の間での結婚だけでなく、信者と未洗者、あるいは、未洗者と未洗者の間の結婚によっても解消できないきずなが生じることを教えている。従って、極めて例外的な特殊ケースを除き、カトリック教会では離婚者の再婚は認めない。

第2バチカン公会議は、このきずなについて次のように教えている。「この聖なるきずなは、夫婦と子供と社会の善のために、人間の自分かってにはならない。神自身が婚姻の創設者であり、種々の善と目的をこれに与えられたからである。そして、これらすべての善と目的は、人類の存続にとって、家族各員の個人的向上と永遠の目的にとって、家庭と全社会の尊厳、永続、平和、繁栄にとって、最も重要である。

婚姻制度そのものと夫婦愛とは、その本来の性質から、子供の出産と教育とに向けて定められているものであって、これらはその栄冠のようなものである。したがって男女は、結婚の誓約によって「もはや二つではなく、一つの肉であり」 (マタイ 19章6節) 、自分たち自身と行為の深い一致をもって互いに助け合い、仕え合う。

こうしてかれらは自分たちが一つであることの意味を体験し、絶えずそれを深めてゆくのである。この深い一致は、ふたりの人間が互いに与え合うことであって、子供の善と同様に、夫婦間の完全な忠実を要求し、また夫婦間の一致が不解消であることを求める」 (第2バチカン公会議・現代世界憲章48)。


結婚の秘跡

このように書いてくると、カトリック教会の結婚の教えは、規則とおきてに縛られた窮屈なものとの印象を与えるが、それは誤りである。結婚の重要さを強調するため、さまざまな規定があるが、根底にあるものは、冒頭に述べたカナの奇跡に現れるような、神のやさしさである。

教会の結婚式で唱えられる祝福の祈りにそれがよく表されている。「宇宙万物の造り主である父よ、あなたはご自分にかたどって人を造り、夫婦の愛を祝福してくださいました。今日結婚の誓いをかわした2人の上に、満ちあふれる祝福を注いでください。2人が愛に生き、健全な家庭をつくり(子どもに恵まれ)ますように。

喜びにつけ悲しみにつけ信頼と感謝を忘れず、あなたに支えられて仕事に励み、困難にあっては慰めを見いだすことができますように。多くの友に恵ぐまれ、結婚がもたらす恵みによって成長し、実り豊かな生活を送ることができますように。わたしたちの主・キリストによって。アーメン」 (カトリック儀式書結婚 116 頁)。

創世記は書いている。「神は御自分かたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這(は)う生き物をすべて支配せよ』」(創世記 1章27-28節)。

結婚は、神の創造のわざを継続し完成するために神の協力者となることである。そんな大きなことを人間は自分で思いつき、勝手に実行できるはずがない。神はそのために人を結婚に招き、その誓約を祝福し、創造主の協力者としての恵みをくださる。そのような神の配慮は、信者と信者の間の結婚は、さらに進んで、人類の救い主、贖い主であるキリストと人類・教会の一致にかたどられ、そのようなものとして完成する特別な恵みを与える秘跡 (婚姻の秘跡) となっている。


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