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山本神父入門講座

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58. 死、さばき、復活

聖母の御眠りの教会
聖母の御眠りの教会

死、さばき、復活。大切な項目で、一つずつ取り上げても、一回ずつでは説明し切れないが、終末について何も述べずに終わるよりはと考え、このようなかたちで取り上げることにした。

人生は旅にたとえられ、死もまた死に出の旅といわれる。旅ならば、はじめての外国でも、ガイドブックを読めばなんとかなる。人生のことは先輩、同僚の経験に頼ることができる。しかし、死に出の旅は違う。聖書も死について多くのことを語るが、来世のガイドブックにはならない。死後を経験に則して語る言葉がないからである。そのため、聖書も、たとえ話し、ひゆ、シンボルなどによってしか説明する他はないのである。その聖書によって死について学ぼう。

まず、ルカ福音書だけにある「金持ちとラザロ」の話しを聞こう。「ある金持ちがいた。... 毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。

・・・やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府 (よみ)でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、... ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った『... お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』」 (ルカ16.19-26)。


人間の死には、危篤、一連の治療行為、そして、臨終を迎える。その後、納棺、通夜、葬儀、告別式、火葬、埋葬と、厳かに進められる死者に対する儀式がある。遺族とともにあずかるそのような次元のほかに、神とのあいだで展開される別の次元がある。

死は、使命を帯びて派遣された人間が、派遣された期間を終えて神のもとに呼び返されることである。その時、「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。・・・それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」 (ロマ 14.10-12)。

裁きについて、イエスは次のように話された。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊(やぎ)を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。

「『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』」。彼らは、いつわたしたちはそのようなことをしたかと尋ねる。「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ』」。

聖母の御眠りの教会
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彼らは、いつわたしたちはそのようなことをしたかと尋ねる。「そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである』」 (マタイ 25.31-46) 。

先に述べた金持ちのラザロに対してとった態度は、「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったこと」として裁かれたのである。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」」(ヨハネ 3.16-17)が、人間が好き勝手に振る舞っても、神が救ってくださるというのではない。

人は死に際して、一人一人は、神の国にふさわしいか否かを裁かれ、永遠の、つまり、取り消しも、やり直しもきかない、救いか滅びが決定するのである。

パウロは書いている。「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」(1コリント 6.9-11)。


イエスは死者の復活を教えた。イエスの生存中も、復活については、それを信じるファリサイ派と、否定するサドカイ派の間で論争があった。そのサドカイ派の何人かがイエスに尋ねた。

「先生モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男、と次々この女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」 (ルカ 20.27-33) 。

イエスはお答えになった。「この世の子らはめとっとたり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使にひとしい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴(しば)』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」 (ルカ 20.34-38)。


ここでイエスは大切なことを指摘された。死んで、「次の世に入る死者」は、人生を生き抜き、その生涯を終えた「その人」と同一人物であるが、「その人」は、この世に生きていた時とは異なった状態にある。「めとることも嫁ぐこともない」といわれる状態にある「その人」は、もはやこの世の人間の普通の営みをしない。もはや死ぬこともない。天使にひとしい者、復活にあずかる者として、神の子である。

生前と死後を通じて同じ人格を持った同一人物であるが、自分のあり方も自分を取り囲む状況も全く異なっている。死ぬまでこの人物をしばっていた時間と空間の枠も取り払われてしまった。それらを超越する神と結ばれたからである。パウロは、これを「霊の体」に受けた人間と呼んでいる(1コリント 15.35-49 参照)。

パウロは復活を考えるとき、一人の人間の上に起こる変化ともとらえているが、さらに、それはキリストの復活による罪と死に対する勝利が、世の終わりに、世界の歴史の上に実現することを教えている。

「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。

最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです(1コリント 15.50-58)。


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