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山本神父入門講座
クリスマス編 第3回
クリスマスと旅
人生は旅にたとえられる。そのためだろうか、聖書のクリスマスの記述には、旅のテーマが出てくる。イエスは旅先で生まれたし(ルカ2章1~7節参照)、イエスの誕生のとき、東方でその星を見た占星術学者たちが、星を頼りに、エルサレムに幼子(おさなご)を訪ねてきた(マタイ2章1~11節参照)。また、イエスは、ヘロデ王にいのちを狙われ、エジプトへ避難した(マタイ2章13~14節参照)。 旅のテーマは、今年のクリスマスにどんなメッセージを伝えてくれるのだろうか。ルカによる福音書に描かれた旅のテーマを追ってみよう。
マリアが、天使のお告げでイエスを宿したとき、最初にしたのは、ガリラヤのナザレから南へ150キロほど離れた、都エルサレムに近いユダの町に旅することだった。天使のことばで、高齢の親戚エリサベトが男の子を身ごもり、妊娠6か月になることを知ったので、エリサベトを見舞い、手助けをしようと考えたのだろう。救い主の母になったマリアが、まず考えたのは、他人のことだった。
親戚の家に着いたマリアは、エリサベトに挨拶した。エリサベトは答えた。「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」。それに答えるかのように、マリアは神をたたえた。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」。
マリアのことばは、マリアの賛歌(マグニフイカト)呼ばれて、いまもキリスト教会で感謝の祈りとしてとなえられている。マリアとエリサベト、「偉くなった」と思ってもよいこの二人には、おごりのかけらもなかった。偉大なことがあるとすれば、それは神さまがなさったこと。自分たちが偉くなった訳ではない。神に感謝をささげ、与えられた使命を果たし、神さまと人びとに仕えようとする謙虚さがこの二人にはみなぎっている。このさわやかさこそ、主の降誕祭の実りなのだ。マリアは、3か月ほど滞在してから、ナザレに戻っている(ルカ1章39~56節参照)。
ルカによる福音書2章によれば、イエスの誕生が近づいたとき、ローマ皇帝から住民登録の勅令が出て、各自は登録のため自分の町へ行くことになった。ヨゼフはダビデの血筋だったので、臨月のマリアを連れて、約150キロの旅をしてダビデの町ベツレヘムヘ行った。
せっかくお産のために用意したものは、大部分ナザレに残して行ったに違いない。どうして神は、住民登録を別のときにさせなかったのか。そうすれば、準備の整ったナザレでお産ができたのにと思う。また、世の父親なら、臨月の娘が長旅をしなくてすむように関係筋に交渉すると思うが、神である父は、そんなことはしなかった。
そのようにして、「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には被らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2章6~7節)。
救い主が生まれたとき、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(ルカ2章7b)。これは衝撃的なことばである。イエスが生まれたとき、居場所がなかったと言うのか。「自分には居場所がない」。こういって落ち込んだり、悩んだりすることが、わたしたちにはときどきある。イエスは、そういうわたしたちの仲間として生まれてきた。
しかし、イエスは、与えられた飼い葉桶にあれこれ注文をつけないで、それを神さまが用意してくださった居場所として受け取った。
ルカによる福音書は、羊飼いに告げた天使のことばを書いている。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2章11~12節)。
このことばに従って、羊飼いたちが、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てたとき、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2章19節)。わたしたちにしてみれば、不本意としか思えないイエスの旅先での誕生であるが、マリアは、マリアの賛歌(マグニフィカト)の雰囲気の中で、神の不思議な計画を思いめぐらしていたのである。
神がイエスを通して与えようとするしあわせは、困難や不都合を取り去ることではなく、それを乗り越えて神の望みの実現を求めることであり、救いは、そのために必要な力を与えてくださることである。
わたしたちが「居場所がない」と嘆くとき、ヨセフとマリアは、「あなたのためにも、きっと神さまは居場所を用意しておられるに違いない。一緒にあなたの飼い葉桶を探しましょう」と言われるだろう。そして、神はなぜこんなことをなさるのかとわたしたちがつぶやくとき、ヨセフとマリアは「うちのイエスのときも大変だった。けれども大切なところで、いつも神さまは助けて下さった」と言われるに違いない。