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新世紀ルーツへの巡礼

目次

第二次世界大戦

5) 戦時中のエピソード

シスターテクラメルロ

シスターテクラに関する戦時中のエピソードを、いくつかご紹介しましょう。

1943年9月以降、イタリア軍が崩壊し、ドイツ軍の占領とパルチザンのゲリラ戦のもと、逃亡中の戦争捕虜や、爆撃で離散した家族などが増えたころ時、シスターテクラは、だれにでも分け隔てなく援助を与えるようにという指示を出していました。

ある日、修道院が銃をかまえたドイツ軍に包囲されたことがありました。近くに防空壕があり、そこにはドイツ軍の捜している何人かのイタリア兵がひそんでいたのです。「お隠れなさい」と、シスターテクラは、そこに入れてやったからです。

ドイツ兵が、その壕の入り口に機関銃を据えたその時、ひとりのシスターが間にはいったのです。シスターテクラでした。危険に気づいた彼女は、一人の神父と一緒にドイツ兵の前にとび出たのです。そして、こう言いました。「さあ、撃ちなさい、わたしに向けて撃つなさい」と。一瞬の沈黙が流れました。

時は正午ごろでした。彼女は、みんなに自分で準備しておいた食べ物を配ることを思いつきました。こうしてシスターたちだけでなく、少年たちも、追われていた兵士たちも、みな無事に救われたのです。

シスターテクラは、戦争の間、修道院の各テーブルに水を満たした洗面器を置いておくように命じていました。それは、水にハンカチをひたし、鼻にあてて、窒息ガスにやられないためです。そして、何人かのシスターに、危険にさいしてとるべき行動を、起こった時のために指示していました。彼女は、応急手当にもまるでくろうとのようなところを見せていました。

シスターテクラの親切は、自国の人たちだけでなく、ドイツ兵にまでもおよびました。
 ある日、彼らが捜している男たちがいないかと、ドイツ兵が修道院の捜索を望んだのです。シスターテクラは、シスターのほかにはだれもいないと確認させるため、自分で部屋から部屋を案内しました。その夜、二人のドイツ兵の宿泊を頼まれ、シスターテクラは彼女自身で、応接間に夜具を準備しましたが、彼らは泊まらないで帰っていきました。

このようなことが起こった後、ドイツ軍の戦局が悪くなったとき、彼女はドイツ将校の高官の信用を得ていたので、彼らはどういう処置をとったらよいか彼女に助言してくれました。彼女は、ビテルボとボローニャのシスターたちをよろしくと頼み、将校は、ドイツ軍の手で一すじの髪も損われることはないと、厳粛に誓い、事実そのとおりになったのです。

シスターテクラは、人々が敵味方に分かれ争うことを非常に苦しんでいました。彼女にとって敵兵というものは存在しなかったのです。彼女にとってあるのはただ上官の命令に従わなければならない若者であり、飢え、渇き、そして休みもなく毎日を過ごさなければならない彼らを心していました。「みんな神様の子です。……あの人たち一人ひとりのために、主がどれだけのことをなさってくださったか!」この考えに基づき、彼女は多くの兵士を危険と飢えと寒さから救ったのです。彼女は袋を用意し、パンとほかのものを入れて準備していました。それを、隠れている兵士の一人が、一週間ごとに取りに来ていました。それには、もしものことを考えて10日は十分まかなえるくらいの食糧が入れてありました。
 彼女は「あとは主が計らってくださいます」と、シスターたちに言っていました。

多くの敗残兵が、シスターテクラのもとに安全なのがれ場を見いだしていたのです。彼らは、自分と仲間のためにたくわえを取りに来ていました。ある時はからだを暖めるための一本のリキュールが、ある時は毛布、肩かけ、菓子、あるいは変装するための洋服などが用意さていました。

シスターたちの中には、シスターテクラに、あの人たちのみんなが兵士ではないと言ったことがありました。たぶん彼らのなかには、この状況を利用する人もいたのでしょう。しかし、シスターテクラは、「かまいません。いろいろ批判したり、詮索しないようにしましょう。主がよいようになさいます」と言っていました。

あるとき、一人のシスターが、兵士だと言っている何人かの人のあとをつけて行きました。そして、その中の一人は少なくとも兵士でないことをつきとめました。その人は、その日からシスターの前に姿を見せることはありませんでした。ある日、彼はおどおどした様子で戻ってきて、シスターテクラに言いました。「私のあとをつけてくるシスターを見ました。疑ったんでしょうか。私はあとをつけられたくなかったので、他の道をとりました。私は○○(隠れがの名を言った)にいます。あなたがお知りになるのは当然です。しかし、みんなには言うわけにいきません。他の人を裏切らないために。」
 この出来事は、人を警戒しすぎる何人かのシスターたちに、よい教訓となりました。

修道院からそれほど遠くない洞窟には、隠れている兵士たちのグループがあり、その中の一人が毎週危険を冒してシスターテクラの所に来ていました。彼女は息子のように彼を迎え入れ、彼は彼女が準備したものを手にして帰って行っていました。

修道院で働いていた労働者も、悲惨な時代を生きており、その家族も、みんなシスターテクラから助けられていました。

イタリアが交戦地区となり、どこもかしこも空から爆撃されるようになったとき、シチリア島にあるカリアリ修道院も爆撃を受け、半壊しました。ローマの修道院も同様でした。……  このようなとき、シスターテクラは、戦時中の混乱のただ中にあっても、リーダーとしてみなの一番必要で役立つことを見分け、娘たちに直接会って、また手紙で、電話で指示し、ある時は夜に避難所に行くこともたびたびでした。

シスターテクラは、平和なときと同様に会員に指示を与え、「この時期にたくさんの人たちが耐えている苦しみを思えば、私たちが耐えるべきことはものの数ではありません」と言っていました。

戦時中の危険な中にあったとき、北イタリアのベネトの療養所で一人の若いパウロの娘が最期の日々を絶望のうちに生きていたのを知ったシスターテクラは、すぐに自分の危険をかえりみず療養所に向けて出発しました。彼女は、信仰こめて母親のように彼女に語りかけました。するとこの姉妹は、目の前の死に対する恐れがなくなり、神様の思し召しならば、「はい」とすぐにでも応えることができるまでに落ち着いたのでした。

◆6--1 第二次世界大戦


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