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第4回 神認識に関する教会の教え


前回、私たちは、この世界の諸現象や人間を見ることによって、神が存在しておられることを、知ることができるということについて学びました。今回は、そのことについて教会がどのように教えているか、みてみましょう。


第1部 第1章


3. 神認識に関する教会の教え

36項には、はっきり、そのことが書かれています。「人間理性の光によって、また被造物を通して、万物の起源と目的である神を確実に知ることができる」。そのわけは、「人間は神にかたどって創られた」からだといっています。しかし、なぜ、私たち人間は、素直に神の存在を認めることができないのでしょうか。

37項には、教皇ピオ12世の文書が引用され、次のようにその理由を述べています。「このような真理を把握するために、人間の知性は、感覚と想像や原罪の結果、乱れた欲望に妨げられます」。ですから、「これらの真理が、すべての人に、容易に、揺るぎない確実さをもって、あやまりを含まず、知られうるため」には、「神の啓示に照らされる必要がある」と38項で私たちに教えています。


4. どのように神について語るのでしょうか

私たちの神認識には限界があるので、私たちが神について語る言葉にも、自ずと限界があります。実際に、神について知るといっても、私たちは、神について、どれほどのことを知っているのでしょうか。残念ながら、神については不十分にしか話すことができません。

被造物はすべて、なんらかの点で神に似ているところがあります。ですから、神のことについて考える人々に、神のある面を思い出させてくれます。例えば、美しい景色を見れば、それをお創りになった神の美しさに思いをはせるなど、ということがあります。このように、人間を含むすべての被造物にある真・善・美は、神の無限の完全さを反映しているのです。特に、私たち人間は、神にかたどって創られたので、「神の似姿」といわれます。ですから、他の被造物以上に、神を思い出させるよすがとなっていなければならないはずですが、さて、私たちはどうでしょうか。

私たちは、神を表現するために、当たり前のことですが、人間の言葉しか使うことができません。神と、その「似姿」である私たち人間との間には、類似点もあるのですが、それ以上に非常なへだたりもあります。ですから、私たちの限られた言葉では、神の神秘を完全に表すことはできないのです。聖トマス・アクイナスは、このことを、「私たちが神を知ることができるのは、『神はこうではない』ということ」でしか知ることができないのだと、言っています。それは、ある意味で当然のことです。というのは、「神」という言葉は、この世のなにものも、何事も指し示していないからです。しかし、私たち人間は、神を無視することはできず、昔から今に至るまで、神を尋ね求め、この世のいろいろな事象を通して神とかかわり、このかかわりによって、自分とこの世の事柄の意味を知るのです。

これで、第1部 第1章は終わりました。最初に説明したように、各要所要所に「要約」が出ています。ここでも、44~49までの項目が「要約」として示されています。この要約は、本書の中でも、一番大切なポイントです。ここを、皆さん一人ひとり、ゆっくり理解するように努めながら読んでください。

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