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第12回 わたしは信じます –(2)
前回は、第3章「神への人間の応答」の第1項「わたしは信じます」を学びました。第2項「わたしたちは信じます」に進みましょう。
第2項 わたしたちは信じます
信仰は、神とキリストに対する人格的な行為です。信じるのは「わたし」であって、他の誰かではありません。まったく、個人としての「わたし」が信じるのです。その意味で、「わたしは信じます」と公言します。しかし、この信仰は、個々人によって、その信じる内容が異なっているのではありません。その内容は、他の人から受け取り、受け取った人は、また、他の人に伝えていくというふうに、多くの方々の信仰に連なり、支えられています。その意味で、「わたしたちは信じます」と公言します。
洗礼を受けたとき、一人ひとりは「わたしは信じます」と宣言しました。しかし、私たちはまた同時に、「わたしたちは信じます」とも宣言します。それは、日曜日ごとに教会に集まり、ミサに参加した私たち信者が、教会の信仰を公に宣言するときです。ですから、「わたしは信じます」と言っていても、同時に「わたしたちは信じます」と公言することでもあるのです。これはまた、私たちの母である教会自身の信仰告白でもあります。
1 「主よ、あなたの教会の信仰を顧みてください」
信仰の主体は、一人ひとりの信者であると同時に、教会そのものが信仰の主体です。教会が「わたしの信仰を支え、養い、助け」(168)るのです。教会が、まず、主を公言し、わたしたちも、教会と共に「わたしは信じます」「わたしたちは信じます」と公言します。
神の啓示は、常に、「神の民」である団体に与えられました。旧約時代もそうでしたが、イエスご自身も、12人の使徒を選び、人々に福音を伝える使命を与えられました。こうして教会が形成されてきましたが、使徒を頭とする人々は、自分たちが「新しい神の民」であるという自覚をもって生きました。
私たちは洗礼を受けた時、教会を代表して、司式者から「あなたは神の教会に何を求めますか」と尋ねられ、「信仰を求めます」と答えました。ついで「信仰によって、何が与えられますか」という問いに、私たちは「永遠のいのちが与えられます」と答えました。
「神の民」である私たち一人ひとりによって成り立っている教会は、生きています。「旅する教会」と言われるように流動的です。教会の教える内容に間違いはありませんが、組織としての教会のやり方には間違うこともあります。ですから、大聖年に、教皇様が公に教会のおかした過ちのゆるしを願われたのです。
2 信仰のことば
「わたしたちは信じます」といっても、私たちは、紙に書いてある言葉を信じているのではなく、そのことばが表している現実、信仰によって「触れる」ことができる現実を信じています。とは言っても、信仰を表現するために、私たちは言葉を使っています。教会は、その信仰のことばを忠実に守り、使徒たちの「信仰告白」を伝えてきました。
3 唯一の信仰
現在、全世界といっていいくらい、どこの国でもカトリックの信仰を公言する人々がいます。信者数としては、10億人を超える人々がいます。しかし、国、民族、言葉が違っていても、その信仰は唯一です。これはすばらしいことです。私たちは、この信仰を大切に守り続けているのです。
176~184が「要約」としてまとめられています。大切な要点だけをまとめたこの箇所を、今回もよく読んでみてください。