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第27回 キリストの全生涯は神秘である


今回から、いよいよイエス・キリストについて、ご一緒に学んでまいりましょう。


第3節 キリストの生涯の神秘


信条で、私たちが宣言することは、キリストの生涯の誕生と公生活の主なことについてだけです。イエスの私生活と言われるナザレで両親に従って生活されたことなどについて、信条は公に言っていません。しかし、イエスの受肉と過越に関する信仰箇条は、キリストの生活のすべてを解き明かすものです。


1 キリストの全生涯は神秘である

キリストの全生涯は、普通の伝記作家の書いたある人の生涯と比べると、その全生涯は神秘のベールに覆われたものです。それは、福音を記した人々と、世の伝記作家の違いと言えるものです。

福音記者と呼ばれている、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネたちは、自分が信じている信仰のすばらしさを、ぜひ他の人々にも伝えたいという思いで福音書を書きました。彼らは、イエス・キリストの生涯の1コマ1コマに、神の神秘を感じていました。イエス・キリストが人となられたのは、私たち人間に救いを与えるための、目に見えるしるし・秘跡となるためでした。


イエスの諸神秘の共通点

キリストの全生涯、そのことば、行い、苦しみ、生き方のすべては、御父を啓示しているものです。また、キリストの全生涯は、あがないの神秘です。その頂点は、十字架上での苦しみと死ということですが、それだけではなく、その生涯のすべてがあがないの神秘を表しています。さらに、キリストの全生涯は、統合の神秘です。それは、イエスがなさったひとつひとつの行為によって、原罪を犯し、神から離れ去った私たちを救い、神のもとへ連れ戻してくださるからです。


イエスの諸神秘に結ばれる

イエス・キリストの生涯は、自分のものではなく、私たちのためのものでした。私たちの救いのために人となられ、私たちの罪のために死なれました。その一生は、私たちのために生きられたものでした。その一生は、私たちの模範です。イエス・キリストの全生活は、私たちがイエスとともに生き、イエスが私たちとともに生きるためでした。

イエス・キリストは、神の子でしたが、人となられることにより、ご自身を私たち人間と同じものとなり、ご自身を私たちと一致なさったのです。ですから、私たちは、イエスの諸神秘に結ばれることができるのです。


2 イエスの幼年時代とナザレでの生活の神秘

準備

父なる神は、その愛するひとり子をこの世に遣わすにあたり、幾世紀にもわたってその準備をなさいました。旧約の神の民との契約をとおして、また預言者たちの口をとおして、救い主を迎える準備をなさったのです。御父は、洗礼者ヨハネによって、キリストを迎える直前の準備をさせようと計らわれました。

この旧約時代から洗礼者ヨハネまで、長くかかって準備してきた救い主を迎える準備を、教会は、毎年待降節の典礼を行いながら、神の民の心を、再び来られる主をお迎えする準備させるのです。

イエス・キリストは、ベツレヘムの家畜小屋で、ひっそりと貧しく誕生されました。イエスをキリストと知り、礼拝したのは、天使のお告げによって知った羊飼いたちでした。

このキリストが降誕されたという神秘を私たちが生きるためには、キリストが私たちの内に形作られる必要があるのです。今年の待降節、降誕節には、この神秘を生きるように、ご一緒に努めましょう。


イエスの幼年時代の神秘

イエスの幼年時代について福音書が私たちに教えてくれることは、ごくわずかのことにすぎません。まず、イエスは、イスラエルの民として、8日目に、洗礼の前表としての割礼を受けました。

東方から来た占星術の学者たちが、イエスを礼拝したことを記念する公現は、イエスがメシア、神の子、世の救い主であることを表しています。この出来事は、イエスによる救いを喜び迎える諸国民の初穂を表すものです。日本人を含む多くの異教の人々が、神の民に加わり、アブラハムの子孫に約束された栄光を受けることを現しているのです。

イエスは神殿で奉献されました。これは、主に属する初子であることを示しています。聖母マリアとヨゼフがイエスを抱いて神殿に上った時、シメオンとアンナが、喜び迎えました。これは、イスラエルの民が救い主を待ち望んでいたことを表すものでした。

ヘロデ大王が、新しい王の誕生の話を聞き、ベツレヘム近郊の嬰児殺害を企てました。そのため、イエスを連れた聖家族は、エジプトに避難しなければなりませんでした。イエスのエジプトからの帰国は、モーセの率いたイスラエルの民がエジプトから脱出したことを表しており、イエスが決定的な解放者であることを示すものです。


ナザレにおけるイエスの生活の神秘

イエスが公にみんなの前に出て宣教生活に入られるまでの約30年間の生活を、“私生活”とよんでいます。イエスは、しばしば「ナザレのイエス」と言われます。それは、この私生活を過ごされたのが、ナザレだったからです。ナザレは、エルサレムから遠く離れたガリラヤ地方の町でした。

“公生活”がたった3年間ですから、イエスの生涯のほとんどは、この地方で地道に額に汗して働く労働者の生活を送られました。ヨゼフは大工でしたから、イエスも大工仕事を習い、その仕事をなさっていたことでしょう。イエスは両親に仕え、「知恵が増し、背丈も伸び、神と人に愛された」(ルカ2.52)と福音書は伝えています。

イエスはユダヤ人が普通に受ける教育や宗教知識を身につけ、社会の一員としての自覚を養い、信仰深いユダヤ人として成長していったに違いありません。それは、公生活に入られてからのイエスの観察眼や、人々を見る確かな目などから見て、これらがナザレの生活で培われたものだと感じられるからなのです。

イエスの毎日は、マリアとヨゼフに従う生活でしたが、このナザレでの日常生活における従順によって、アダムが犯した不従順によって破壊されたものの再建を、すでに始めておられたのです。

イエスが12歳になられたとき、エルサレムの神殿に詣でた折、両親がイエスを見失い、神殿でイエスを見いだしたという事件は、福音書が語る唯一のイエスの少年時代の出来事です。ここで、イエスは、神の子であるというご自分の使命に、全面的にささげられたものであるという神秘をかいま見せてくださいました。この神秘を聖母マリアは、大切に心に納めておられました。

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