home>キリスト教入門>カテキズムを読もう>第1編 信仰宣言>第2部>第29回 イエスの公生活の神秘 –(2)
カテキズムを読もう
第29回 イエスの公生活の神秘 –(2)
イエス・キリストによって開かれた「神の国」は、神の力が働き、いやしや解放という神の「しるし」・奇跡も伴うものでした。また、神の国について、たとえ話もしてくださいました。では、続きをはじめましょう。
◆「天の国のかぎ」
公生活を始められてすぐ、イエスは、自分の周囲に集まってくる大勢の弟子の中から、使徒と呼ばれる12人をお選びになりました。それは、自分の側に置くため、また、救い主としてのイエスの使命に参与させるためでした。
12使徒の中から、イエスはシモンを選び、「ペトロ(岩)」という名前を与え、教会の責任者としての使命をお与えになりました。キリストは、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」と、おっしゃって、ペトロに使命を与え、ペトロの上に建てられる教会が、悪の力から勝利を得るという約束をしてくださいました。ペトロは、こうして揺るぎない教会の岩となりました。
イエスはペトロに、特別な権限を与えられました。それはいわゆる「かぎの権能」と呼ばれているもので、神の民を導いていくために必要な権威を意味しています。しかし、この権威の行使の仕方は、世の権力者のやり方とは違うものです。
この「かぎの権能」は、イエスの「わたしはあなたに天の国のかぎを授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」ということばをもって、授けられました。この「つなぐ、解く」という権能は、罪をゆるすこと、教義上の判断をすること、教会の規律に関する決定をするという権威があることを意味しています。
復活の後、イエスがガリラヤ湖で、弟子たちに姿を現された時、ペトロに「わたしを愛しているか」と3度おたずねになりました。イエスの受難の時、イエスを否んだペトロは最後には「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と叫びました。 イエスは「わたしの羊を牧しなさい」とおっしゃり、これらの権威を人々への奉仕によって果たすことをお命じになったのです。
◆神の国の前兆——変容
イエスの変容の出来事は、「神の国」のすばらしさを、弟子たちの姿をとおして、私たちにかいま見せる出来事です。
ある時、イエスは「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と弟子たちにたずねられました。弟子たちは、口々に「エリアだと言っています」「預言者の一人だと言っています」と答えました。ところが、イエスは「それでは、あなた方はわたしを何者だと言うのか」と問われました。そのとき、ペトロは一同を代表し、「あなたは生ける神の子、キリストです」と信仰を告白しました。この直後から、イエスはご自分の受難と死、復活について弟子たちに、打ち明け始められました。この予告に、弟子たちは動揺しました。この時、「主の変容」の出来事が起こったのです。これは、弟子たちに、イエスの受難という試練に立ち向かう力を与えるためでした。
変容の出来事とは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を連れ、イエスが高い山に登られたとき、イエスの顔や衣服は白く光り輝き、モーセとエリヤが現れたことを指します。イエスとモーセとエリアは、エルサレムでイエスが受けられる受難と死について話していました。イエスの受難は、御父の御旨であり、御子イエスは「苦しむ神のしもべ」としての道を歩かれるのだということを示されます。
キリストの公生活のはじまりに洗礼があり、過越がはじまる前に、この変容がありました。両方ともに、「これはわたしの愛する子、彼に聞け」という御父の声が聞こえ、御子キリストの上に、聖霊が注がれました。
キリストに倣い、私たちも洗礼を受けることにより、再生され、神の子とされましたが、変容は私たちに第2の再生を教えるものです。キリストが、苦しみを受けてから栄光に入られたように、私たちも神の国に入るためには、この世での多くの苦しみを経なければならないのです。
◆エルサレムに向かうイエス
ご自分の最後をご存じのイエスは、エルサレムに向かって歩いて行かれます。すでに3度、ご自分の死と復活を予告なさったイエスは、死を覚悟してエルサレムに上られます。最後まで、エルサレムの人々が、イエスの言葉を受け入れ、神のもとに帰るように訴えられたのです。ルカの福音書には、イエスが涙を流されたことが書かれています。ルカ19章をご覧になってください。イエスの切々たるみ心が伝わってきます。
◆イエスのメシアとしてのエルサレム入城
エルサレムに着いたイエスを、人々は、「ダビデの子にホザンナ」と叫び、手に手にシュロの葉を持ち、それを力いっぱい振りながら、大喜びで迎えました。人々は、イエスを、「ダビデの子」「救い主」として迎えたのです。
イエスはロバの背に乗って、エルサレムに入ってこられました。これは、教会の前表である「シオンの娘・エルサレム」の心を、策略や暴力によってではなく、真理をあかしする謙虚さによって勝ち取られるということを示しているものです。ですから、この日、ロバに乗って入場する王としてのイエスを認める人々は、貧しい人々、子供たちだったのです。イエスのエルサレム入城は、救い主である王が、死と復活による過越をとおして実現しようとなさっているみ国の到来を表しているのです。
エルサレム入城の主イエスを、私たちは毎年、聖週間の最初の日曜日を「受難の主日(枝の主日)」として記念しています。それだけではなく、ミサごとに、エルサレムの心貧しい人々がイエスを迎えた歓呼の声を、「感謝の賛歌」の中で繰り返しているのです。
最後に要約が付いています。ここにも、眼を通してください。