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第55回 キリスト・イエスにに結ばれて死ぬ


2. キリスト・イエスにに結ばれて死ぬ

前回、キリストと共に復活することについてお話いたしましたが、キリストと共に復活するためには、キリストと共に死ななければなりません。



人間にとって、死は誰にも平等に与えられているものの1つだ、とよく言われます。キリスト教信仰の立場から死を見るとき、キリストの恵みのうちに死ぬ人の死は、キリストの復活に参与するものとなるのです。

死は、この世のいのちの終わりです。--他の生物と同じように、私たちも誕生し、成長し、次第に老いていきます。そして、いのちの終わりに、私たちは死を迎えます。

死を思うとき、ある種の緊張を感じます。それは、自分の人生の最後の限られたひとときだと自覚しているからです。

死は罪の結果です。……神は、人間を死ぬべきものとして創造されたのですが、その人間を不死のものと定められていました。しかし、原罪の項目のところで、ご一緒に見たように、人間が罪を犯した結果、死がこの世に入ってきたのです。人間が罪を犯さなかったならば、死ぬことはありませんでした。肉体の死は、人間の打ち勝つべき最後の敵なのです。


キリスト教的死の意味

キリストを信じて洗礼を受けているキリスト者は、その洗礼という秘跡を受けることによって、すでに「キリストと共に死んで」おり、キリストと共にその肉体的な死を迎えるならば、洗礼の時の「キリストと共に死ぬ」ことを完遂することになるのです。それによって、キリストの救いのわざに完全に組み入れられるのです。

神は、死をとおして、私たちをご自分のもとに呼び寄せられるのです。ですから、聖パウロのように、「この世を去って、キリストと共にいたい」と熱望しているキリスト者もいることでしょう。キリスト者は、キリストに倣って、御父への従順と愛の行為として、自分の死を受け止めることができるのです。

教会の典礼は、死についてのキリスト教的見方を、非常に美しく表現しています。その一部をご紹介いたしましょう。

「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちの門であり、地上の生涯を終わった後も、天に永遠の住みかが備えられています」。

死は地上における人間の旅路の到着点です。これはまた、神が人間にお与えになる恵みと憐れみの時の終わりでもあります。

人間にはただ1度死ぬものですから、死後の転生はありません。

教会が勧めているように、私たちは自分の死をよく迎えるために、準備をする必要があります。

聖人たちは、いつも、今死がきても大丈夫なように生活しなさい、と勧めていました。そのために、私たちは、いろいろな機会に自分の死のために祈ります。それには、次のような祈りが代表的な祈りです。不測の死から救ってくださるように主に祈り、死のときに、父なる神さまにとりなしてくださるように、いつも聖母マリアに祈ります。また、よい臨終の保護者である聖ヨゼフに祈ります。

最後に「死」についての「要約」があります。短くまとまったものですから、ぜひ、目をとおしてくださいね。

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