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第63回 教会の諸秘跡における過越の神秘 –(2)


3. 信仰の諸秘跡

すべての秘跡は、「信仰の秘跡」と言われますが、それは秘跡が信仰を前提としているからです。主キリストは、復活の後も、使徒たちに教えを述べ、励まされましたが、この地上を去る昇天の時、遺言のように、次のことばを残されました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。(マタイ28.19~20)このことばからもわかるように、神のことばとそれに同意する信仰によって、秘跡は準備されるものなのです。

私たちが各主日に、ミサに参加するたびごとに、「使徒信条」を唱えますが、教会がそれぞれの秘跡を行うとき、使徒たちから受けた信仰を宣言します。このことを、教会に伝わる古い金言では、「祈りの法は、信仰の法」と言ったり、「嘆願の法が信仰の法を定める」と言っています。秘跡は、信者である神の民の信仰の一致を表すと同時に、信仰を培うものでもあります。ですから、祈りの法は、キリスト者の一致を回復するための対話の基本的な1つの基準となるものです。


4. 救いの諸秘跡

それぞれの秘跡を受ける者は、その秘跡が与える恵みを受けることができます。それは、この秘跡において、キリストご自身が働いておられるからです。洗礼を授け、各秘跡の中で行動し、その秘跡が表す恵みを与えられるのは、キリストご自身なのです。

御父は、最愛の御子の教会が、聖霊の力への信仰を表明して祈るエピクレシスを、常に聞き入れてくださり、聖霊は、ご自分の力にゆだねられるすべての者を、神的いのちに生きるものとしてくださるのです。このことが、「秘跡はその行為が正しく行われるということ自体で」効果を生むのだと教会が表明していることなのです。ということは、秘跡を授ける人、また受ける人が正しい人かどうかによって、効果があったり、なかったりするものではなく、神の力が働いて、成し遂げてくださるのです。

教会にとってすべての秘跡は、神との新しい契約なのです。ですから、諸秘跡は、私たち信者の一人ひとりの救いに必要なものなのです。秘跡にあずかる私たちの生活は、聖霊によって神の御子に一致し、いやされ、変化させていただけるのです。


5. 永遠のいのちの諸秘跡

教会はキリストの神秘の祭儀を「主が来られるときまで」(コリント1 11.26)、「神がすべてにおいてすべてとなられるため」(コリント1 15.28)に行います。典礼は、すでに、使徒の時代から「マラナ・タ(主よ、来てください)」(コリント1 16.22)と祈ってきました。秘跡を受けるたびに、私たちは救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望みながらも、すでにその世継ぎとしての保証を受け、永遠のいのちにあずかっているのです。

最後にわかりやすい「要約」がついています。ぜひお読みください。

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