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第76回 洗礼の必要性
今日は、どうして洗礼が必要なのかということについて、ご一緒に考えてみたいと思います。
6 洗礼の必要性
マタイ福音書には、イエスがご昇天の前に、使徒たちに次のように言い残されました。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28.19~20)
イエス・キリストがのべ伝えられ、このキリストを信じ、彼に従って行きたいと望むすべての人々は、洗礼を受けなければなりません。それは、永遠の救いのために、教会がキリストから与えられたこれほどの手段はないからです。神はこのように、救いを洗礼に結びつけられましたが、神ご自身は、洗礼の秘跡にしばられている方ではありません。
「血の洗礼」という言葉を聞いたことがおありでしょうか。信仰のために自分のいのちをささげる人が、たとえまだその人が洗礼を受けていなくても、キリストと共にいのちをささげるという殉教によって、洗礼を受けるということを示しています。さらに、「望みの洗礼」という言葉を聞いたことがおありでしょうか。洗礼を受けたいという望みを表しており、罪の痛悔と神への愛があれば、洗礼をうける前に死んだとしても、洗礼の秘跡を受けたのと同じ救いが与えられると、教会は教えています。
キリストはすべての人の救いのために、ご自分のいのちをささげられました。聖霊は神だけがご存じの方法によって、人々がキリストと教会を知らずにいたとしても、その人が真理を求め、自分が確信する方法で神のみ旨を行っていたとするならば、その人は救われることでしょう。なぜなら、もしその人が洗礼やキリストを知っていたら、必ず洗礼を受けると思われるからです。
洗礼を受けずに亡くなる幼児についてはどうでしょうか。教会は、憐れみ深い神にすべてをゆだねて、幼児のための葬儀を行っています。すべての人が救われることを望んでおられるだけでなく、イエスは、ご自分の側に来ようとする幼児を、抱きかかえられました(マルコ10.14)。このようなイエスの幼児への愛情から見て、洗礼を受けずに死んだ幼児について、救いの道があると教会は考えているのです。